2022年6月12日日曜日

宗像,粕屋、那珂川、早良の古墳記録

 


私が見学した古墳の記録を追加してみる。

永浦古墳

手光古墳

新原・奴山古墳と平等寺古墳

田熊・石畑遺跡

宮地嶽古墳

名島古墳

天神森・部木古墳

糟屋郡の古墳

糟屋郡の前方後円墓

船原古墳

船氏










2022年6月10日金曜日

富士の巻狩りに参加した御家人の姓名

曽我兄弟で有名な富士の巻狩りの前にも、頼朝は 5月8日に鎌倉を発ち、富士の巻狩りに出発しています。

その時は入間野・那須野の巻狩りを遥かに超える御家人3万人が付き従います。その御家人の名前を示す記事がありました。

◎門様(源氏の一族)…足利義兼、山名義範、武田信光、土岐光衡
◎北条一族…時政、義時
◎三浦一族…義澄、義村、和田義盛、佐原義連、土屋義清(岡崎義実の息子)、
◎房総御家人(千葉県)…千葉成胤(常胤の孫)、里見義成、下河辺行平
◎常陸御家人(茨城県)…宍戸家政
◎武蔵御家人(東京・埼玉、横浜・川崎)…畠山重忠、稲毛重成(共に時政の婿)、渋谷重国、平子有長、毛呂季光、岡部清益、新開実重(土肥実平の息子)
◎相模御家人(神奈川県、横浜・川崎を除く)…糟屋有季、波多野義景、愛甲季隆、大友能直(後に九州の守護、戦国大名大友氏の祖)、曾我祐信(曽我兄弟の養父)、河村義秀
◎下野御家人(栃木県)…小山朝政、小山宗政(親子で参加です)、小野寺道綱、長沼宗政、宇都宮頼綱、結城朝光、榛谷重朝(稲毛重成の弟)
◎上野御家人(群馬県)…佐貫広綱、沼田太郎
◎駿河・伊豆御家人(静岡県)…工藤祐経、伊東祐時(親子で参加です)、狩野宗茂(工藤茂光の息子)、吉川友兼、仁田忠常、岡辺弥三郎、藤太、大見小平次
◎奥州御家人(旧奥州藤原氏領)…工藤景光、工藤行光(親子で参加です)、
◎信濃御家人(長野県)…海野幸氏(義高と共に鎌倉に来た子です)、望月重隆(元義仲の配下)、藤沢清親、禰津宗直、中野助光
◎甲斐御家人(山梨県)…市河行房、小笠原長清
◎西国の御家人…佐々木盛綱、佐々木義清(共に秀義じいさんの息子)、加藤光員、臼杵八郎、宇田五郎
◎梶原氏ご一行…梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂(3人は景時の息子)、梶原朝景(景時の弟)、梶原景貞(朝景の息子)
◎その他…大森隆盛(王藤内とも、神職)

このなかで、大友や伊東のように、その後九州地方に配属された御家人も多数はいっています。
アンダーラインをつけた姓名は、九州地区で知り合った私の友人や知人で、そのルーツは鎌倉の御家人だった可能性のある姓名です。
狩野は母の実家の姓で、福岡藩の屋敷に出入りしていたころの刀剣などが残っていました。
藤野は見当たらないので、鎌倉武家ではなかったようです。

ホモ・サピエンスの優位性

 昨日のテレビ「人類誕生」では、ネアンデルタール人が滅亡し、ホモ・サピエンス人が生き残った理由を新説で解説していた。

以前はホモ・サピエンスのほうが創造性が優れていたから生き延びたという説だったが、その根拠は薄弱で大差はみられない。
それよりも生活集団の数が、ネアンデルタールは十数人の家族単位だが、ホモ・サピエンスは百数十人の大グループだったことが明確になった。大集団の方が情報交換ができて、創造性も高まるという説に代わっていた。
欧州大陸のネアンデルタール人と、アフリカ大陸のホモ・サピエンス人が接触したのは、シリア地方あたりとしており、ホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているということも発表された。



栄西と九州の臨済宗禅寺:妙徳禅寺・報恩寺・聖福寺

馬出の妙徳寺と香椎の報恩寺は臨済宗・栄西が開基。

日本に帰国して1192年に最初に作った禅寺である。まさに鎌倉殿の時代だ。
その後博多に大きな聖福寺をつくり、その傘下に 二つの寺ははいった。
寺の菩提樹も栄西が持ち帰った外来種である。菩提樹の甘い香りが漂っている。
戦国時代、島津、大友の戦いで消失。株分けした東大寺からまたまた株分けでこの地にもどった。
因みに我が家の母の菩提寺は妙徳禅寺。聖福寺は恩師野田教授の葬儀で参列したことがある。

妙徳禅寺


法恩寺

聖福寺

聖福寺は臨済宗妙心寺派で、山号は安国山。建久6年(1195)に千光祖師・栄西禅師の開山、源頼朝公の開基。博多居住の宋人・百堂跡に創建された。


山門の扁額
       『扶桑最初禅窟』
博多居住の宋人・百堂跡に創建され、山門の扁額『扶桑最初禅窟』は後鳥羽上皇の宸筆で、「日本最初の禅寺」という意味である。
後鳥羽上皇は、文武にすぐれた人物で、文書も多く残されている。


その生涯は波乱にみちたものであったが、聖福寺の山門の扁額は、30代位に書かれたものであろう。

2022年6月9日木曜日

新宮中央駅前の沖田地区開発事業の経緯

駅東口

新宮 中央駅前のモニュメントの手前に、この地区の事業計画の推移を示した説明板がある。

駅東口の表示

開発前と開発後の航空写真がついている。広い田んぼが存在していた様子がわかる。


駅西口

駅西口の表示



2022年6月8日水曜日

「鯣田橋」

 ウォーキングで、古賀グリーンパークをスタートしてから新宮町との境まで。

近くを流れる青柳川の源流は、新宮町的野の山あいまでさかのぼることができますが、その青柳川の上流の方に架けられている橋の名前。
北筑昇華苑入口交差点近くに架かるこの橋は、昭和54年(1979)に現在の橋に架け替えられた、これといった特徴のない橋のようです。
しかし、橋名がなんだこの名前!?という感じ。
「鯣田橋」と書いて「するめだばし」と読みます。
「するめ」といえば、イカの内臓を取り除いて乾燥させたもので、古くから日本・朝鮮半島・中国南部および東南アジアで用いられていたといわれています。
この「するめ」ですが、名前は「墨を吐くものの群れ」に由来し、「墨群(すみむれ)」が「するめ」となったという説があります。
室町時代の国語辞書ともいえる「下学集(かがくしゅう)」には、「易」には「変わる」という意味があることからすると、「イカがするめに変わる」といったところでしょうか。
日本では「鯣」の字を「するめ」に当てていますが、「鯣」の字は、本来ウナギを指す漢字だそうです。
ということは、「鯣田橋」の名前が付けられたこの付近まで、かつてはうなぎ(鯣)が沢山いたのかもしれません。

周辺の小字名も「鯣田」になっています。

〔写真〕

①青柳川に架かる「鯣田橋」が見えてきました。明治初期頃は土の橋だったそうです。



②漢字で書くと「鯣田橋」





➂ひらがなで書くと「するめだばし」



鯣田橋の地図:青柳川の矢印の先の部分