2011年7月6日水曜日

筑紫の国と豊の国(九州王朝の変遷:改定版)

 九州古代史の会で検討されている九州王朝多元説は、古代から現代につながるものがありそうだ。その概要を紹介する。

 九州の古代史を知るうえでは、魏志倭人伝と記紀(古事記と日本書紀)をよみくらべる必要がある。
魏志倭人伝のルート
 魏志倭人伝には、壱岐から九州島に上陸すると、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、・・・、邪馬台国があったことが記載されている。
 そして邪馬台国は筑紫にあり、卑弥呼は天照大神一世で、その宮殿は香椎にあったと九州古代史の会は設定している。
 

 古事記には、伊邪那岐命と伊邪那美命は次々と島を生んでゆくのであるが、九州の島を生む場面では、次の記述がある。
 
 次に筑紫島(つくしのしま)を生んだ。
 この島には、身(み、体のこと)が一つで、面(おも、顔のこと、つまり国のこと)が四つある。
 四つの面の名前は:
1)筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)、
2)豊国(とよのくに)は豊日別(とよひわけ)、
3)肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよくじひねわけ〉、
4)熊曽国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂う。

1)「筑紫国」を白日別((しらひわけ)とは、九州を統治する(しらす)」国の意味で 卑弥呼が筑紫国にいて、九州を統治していたことを表している。
2)「豊国」を豊日別(とよひわけ)とは、卑弥呼の後継者・台与が住んだといこと、つまり、邪馬台国が筑紫国から豊国に遷都したので、豊前(豊国)には京都(みやこ)郡があり、みやこ町もある。
3)「肥国」には建日向日豊久士比泥別という長い名前がついているが、「火の国は、勇猛でもあり、朝日を拝む神聖な土地もあり、台与の力により神聖で神秘的な国でもある。」ことをしめしている。火を噴く活火山が多い為と思われる。
4)「熊曽国」を建日別(たてひわけ)とは、支配者のいる狭義の熊曽(熊襲)であり、(狗奴国)のことをさしている。
筑紫嶋の四の面
考古学的にも、筑紫と豊は遺骨の埋葬形式が異なることが解っている。


 奴国が漢国から金印をもらうのが57年で、室見川流域の吉武遺跡群にあったと思われる。

 107年に倭国王師升らが、国の成立直後に後漢に朝貢した記録があり、漢国製の鉄剣をもらっている。

 170~180年頃に倭国が乱れ、内戦が続いたので、女王卑弥呼を立てて王とし、新生倭国=邪馬台国連合が成立した。

 3世紀後半に崇神天皇により、大和王権が創始されたと考えられ、北陸、東海、丹波などを侵略していた。

 卑弥呼が魏に入朝するのが238年で、このときもらった金印は不明のままである。卑弥呼は248年には亡くなり、またしばらく新生倭国が乱れ、魏も滅んで晋の時代になる。

 卑弥呼の跡を継いだ台与は天照大神二世で、日向の生まれだが、豊国に遷都したとしている。266年に晋に朝貢して九州をおさめた。

 台与が治めたころから、馬韓(百済)が発展し、九州にも勢力をのばす。

 一方大和政権は、4世紀なかばに景行天皇や仲哀天皇・神功皇后の筑紫巡行で、九州を傘下に治めようとする。
応神天皇の時代になると半島への出兵も度重なり、そのつど兵站や徴兵の負担で、海女の反乱が392年おきる。398年には武内宿禰が早良に派遣される。
この時代には邪馬台国連合の政治的結合力は低落してきたと思われる。
 そして5世紀頃には、筑紫の君磐井、肥前南部の筑紫米多君、筑後部の水沼君、筑前東部の胸形君などの勢力が、個別に大和王権と折衝したり、抗議したりしていた。

6世紀になっての大事件は、528年の筑紫君磐井の乱である。
継体21年(527年)、新羅の再興を理由に、6万の兵を派遣しようとするが、かねてから不満を募らせていた諸勢力が、磐井をリーダとして、大和政権に反旗をおこす事件である。

継体も磐井も、仲哀天皇の5代あとの子孫とする系図がある。
九州古代史の会では、磐井は筑紫に、継体は豊国にいたという説をとっている。 

 筑紫国の灘津は名島であり、豊国の灘津は行橋であった。
筑紫と豊の王は兄弟で、ともに九州の支配者であったが、韓国外交政策の差(親新羅と親百済)から豊国の継体王は、倭彦天皇の後ろ楯となっていた磐井を討って、筑紫の王の発言力を抑えようとした。磐井の乱である。
 継体王は直接出陣せずに、物部鹿鹿火が討伐軍をだすときに、「長門より東を朕が治める。筑紫より西を汝が治めよ」と言つたのは、継体王が豊国にいたことの証明になるとしている。
磐井は継体王に直接話せばわかってもらえると思って、豊の国のほうに逃げたが、物部の兵に殺されてしまった。

 継体王は、糟屋の屯倉を献上させただけで事件を収拾し、あとは東遷のほうに力をそそいだ。磐井一族も大半の勢力を存続し続けた。
わが古賀市には、糟屋の屯倉の遺跡と考えられる遺跡があり、近年、美明遺跡公園として整備された。
糟屋の屯倉(美明)遺跡公園

 この間大和は無人の原野だったのではなく、呉の民族が沖縄、南九州、四国、紀伊のルートで渡来し、銅鏡、銅鐸や古墳文化をおこしていた。
 継体の命をうけて近畿への勢力拡大をはかったのは蘇我氏である。
継体のあと欽明をいただき、以後つぎつぎに豊系の敏達、崇峻、舒明、から蘇我氏系の用明、推古、皇極、孝徳、斉明とつづき、大化の改新(671)で天智となる。

この間に660年、豊系で物部系の政権主権者が、百済の滅亡を聞いたとき、質として手元に置いていた百済の王子・豊彰を送り込み、三軍を組織して百済の再興を支援した。白村江の戦である。
 この主権者について、古田説は筑紫君(筑紫と豊の総称)に薩野馬の名を挙げているが、筑紫君が筑紫物部の主権者の別称であれば、筑紫君薩野馬は「鏡王」と考えられる。

なお、天武=大海人皇子は、白雉四年(653)に皇弟と表記されているから、このときの主権者鏡王の弟だったことになる。

 斉明天皇と中大兄皇子は、鏡王に徴発されてしぶしぶ二万の兵を吉備で調達し九州まで船団を進め、朝倉にて、唐から帰国した伊吉博徳から帰朝報告を聞く。
しかし、白村江の敗戦後、鏡王は戦死の可能性が強かったので、近江に遷っていた伊勢王が同所で即位、白鳳元年(661)~11年癸未(671)が伊勢王の時世となる。
 白村江での敗戦後、伊勢王や大海人皇子ら九州政権者と吉備政権者の天智天皇との抗争が続いたが、668年2月近江で天智天皇が即位し、壬申の乱をへて一応抗争に決着が着いた。


 この間の九州は、新羅の攻撃をおそれて大野城や水城の構築や防人の配備などが急がれ、新羅からの使者が来ても、大和に行けずに九州に留まる状態であった。
九州王権は、壬申の乱への支援兵の要請をことわり、独自路線で、外交や内政をすすめていた時期である。
 この頃のリーダとして記録に残っているのは、糟屋評造春米連広国で、彼が698年に鋳造した釣鐘(国宝)が、京都の広隆寺(秦河勝が建立)に寄贈されている。

ヤマト朝廷の勢力が確立したあとは、筑紫に大宰府がおかれてヤマトの支配下となったが、藤原広嗣の乱などで反抗する時代もあった。
藤原広嗣の乱など
平安時代には、筑紫は平清盛の交易拠点として栄え、その後商人の街博多が独自の自治地区として繁栄をつづけた。


しかしその利権をもとめて、中世・戦国時代には、周防の大内(毛利)や豊国の大友が立花城を根拠に筑紫の国を支配する時代もあった。
立花山
 島津が北上して博多を焼け野原としたが、豊臣の九州支配と博多復興により、繁栄をとりもどした。
徳川時代となり、黒田が豊前より福岡入りしたが、長崎に交易の中心をうばわれ、相対的にはさびれた都市となり、黒田藩と隣接する博多商人街として明治をむかえた。


 明治当初は熊本や長崎よりも人口の少ない都市であったが、次第に福岡への一極集中がすすみ、いまでは九州の中心都市となっている。
 しかし昭和以後でも筑紫出身の総理広田弘毅は、磐井と同じような悲運な道をたどり、豊国生まれの麻生太郎が総理をなんとか務めた。

 糟屋地区(4区)の衆議院議員は周防の古賀氏、(その後は愛媛の宮内氏)がのりこんできており、福岡市長は豊国出身の高島氏が2期務めて、さらに3期目をねらっている。
 何か昔の歴史をひきずっているようだ。

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