2011年7月7日木曜日

筑紫の支配者

朝鮮半島や大陸に近い筑紫は、交易の窓口として古代より反映してきた。
邪馬台国時代より、奴国が金印をもらうなどの歴史がある場所である。
その利権をめざして、支配者が次々にあらわれた。
6世紀には、八女地方の豪族磐井氏が糟屋地区まで勢力をのばしていたが、豊国の継体との戦に敗れて、豊国に支配下となった。
ヤマト朝廷の勢力が確立したあとは、大宰府がおかれてヤマトの支配下となったが、藤原広嗣の乱などで反抗する時代もあった。
平安時代には、平清盛の交易拠点として栄え、その後商人の街博多が独自の自治地区として繁栄をつづけた。
しかしその利権をもとめて、周防の毛利や豊国の大友が立花城を根拠に支配する時代もあった。
島津が北上して博多を焼け野原としたが、豊臣の九州支配と博多復興により、繁栄をとりもどした。
徳川時代となり、長崎に交易の中心をうばわれ、相対的にはさびれたが、黒田藩と隣接した商人街として明治をむかえた。
当時は熊本や長崎よりも人口の少ない地域であったが、次第に福岡への一極集中がすすみ、
いまでは九州の中心都市となっている。
しかし現在でも糟屋地区(4区)にスポットをあてると、衆議院議員は周防を基盤としていた古賀氏がのりこんできており、福岡市長は豊国出身の高島氏が当選している。
何か昔の歴史をひきずっているようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿