2011年9月5日月曜日

平清盛と筑紫(改訂)

平家は正盛、忠盛、清盛と3代にわたて、西国瀬戸内海地区の岡山、四国、広島などの国司をつとめた。

忠盛の時代には筑紫神崎の国司も兼務し清盛の時代には清盛は筑紫の大宰大弐の役職についた。
平治の乱のとき、九州の兵力を援軍としてこれをおさめ、直後に肥前の日向太郎の謀反には、家人の平家貞を派遣して平定した。
筑紫の重要性を知っていた清盛は、府高官が現地に赴任しない習慣をやぶるため、弟の頼盛を大宰大弐にして現地に赴任させた。
そして色んな名目で、平家の家領をひろげ、有力寺社との連携を深めていった。
当時は海外との通商、特に日宋貿易のスタイルを清盛流に変更して、宋朝との国書の贈答を行い、宋人は福原で後白河法皇との会見をし、高倉天皇は宋船に乗って厳島詣でをするなどの行事をはじめた。
宋船の出入りする湊は、博多の袖の湊と福原の経ヶ島といわれている。
築港の技術に共通点が多いからだ。
貿易の利で、太政大臣にまで上り詰めた清盛は、独断的な権勢欲を押しとおしたため、鹿ヶ谷事件などがおこった。

清盛の長男重盛は父の権勢欲を抑えることにつとめたが、病に倒れて死亡する。
清盛は法皇を鳥羽院に幽閉するなどの暴挙にでたため、以任王の挙兵となり、源氏諸国の挙兵に連鎖していく。
福原(神戸)にいた清盛は筑紫への逃避を考えて、2回ほど大宰府まででかけるが、かって筑紫でひろげていた平家の家領の武士達も離れてしまって、ついに逃亡をあきらめる。
このころ脳卒中といわれる急病に倒れ、あっけなく死亡する。
天平3年(731年閏2月4日のことである。その後5年で平家は滅亡する。
清盛にとって筑紫は、幻の宝島であった。

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