大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。
立花宗茂 |
当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花城主の道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。
立花山城 |
ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。誾千代は永禄十二年の8月13日生まれで二歳年下。
誾千代は夫が出陣して不在のときは城代をつとめ、侍女たちまで具足をつけさせて城を守ったという女丈夫であった。
道雪の死亡のあと、九州制覇をめざして島津軍が北上し、実父高橋紹運の岩屋城に猛攻を加えて陥落し、さらに立花城を取り囲んだ。
しかし宗茂夫妻軍の硬い抵抗にあって苦戦しているうちに、豊臣軍の応援軍が筑紫に上陸した。
あわてた島津軍は博多の街に火をかけて、退散してしまった。
秀吉は立花宗茂の働きを認め、大友傘下の立花城主から、独立した筑後柳川城主の大名に抜擢した。
しかし正室の誾千代は、父から受け継いだ立花城を失ったことから不和が生じ、城外の宮永館に別居していた。宗茂が京女を寵愛したとか、秀吉と誾千代との間に不義があったなど、後世の伝記などにでているが、同時代の史料には皆無である。
宗茂は秀吉に仕え、各地の戦や朝鮮出兵でも活躍して、九州の勇将の名を轟かせた。
秀吉の死後も、豊臣側に忠誠をすくし、関ヶ原の戦では西軍についたので、その留守中、鍋島軍の攻撃に対し城を守り抜いたのは、誾千代の力であった。
その後東軍に加藤清正、黒田如水が加わったので、帰国していた宗成は、ついに降伏して開城した。
宗成は浪々の身となるが、立花家中は清正の領国に身をよせるものが多かった。
誾千代は、長洲町腹赤の阿弥陀寺に寓居していたが、2年後34歳で病死したという。井戸に身をなげたという説もある。
宗成の勇猛さと誠実さが評価されていたので、秀忠に再採用され、のちに柳川城主に復活をとげた。
大阪冬、夏の陣や島原の乱では、徳川軍としてその勇将ぶりを発揮している。
地元では、立花宗茂を主役とした大河ドラマの実現を願う運動がはじまっている。
誾千代 |
島津軍北上 |
しかし宗茂夫妻軍の硬い抵抗にあって苦戦しているうちに、豊臣軍の応援軍が筑紫に上陸した。
あわてた島津軍は博多の街に火をかけて、退散してしまった。
秀吉は立花宗茂の働きを認め、大友傘下の立花城主から、独立した筑後柳川城主の大名に抜擢した。
柳川城 |
宗茂は秀吉に仕え、各地の戦や朝鮮出兵でも活躍して、九州の勇将の名を轟かせた。
秀吉の死後も、豊臣側に忠誠をすくし、関ヶ原の戦では西軍についたので、その留守中、鍋島軍の攻撃に対し城を守り抜いたのは、誾千代の力であった。
その後東軍に加藤清正、黒田如水が加わったので、帰国していた宗成は、ついに降伏して開城した。
宗成は浪々の身となるが、立花家中は清正の領国に身をよせるものが多かった。
誾千代は、長洲町腹赤の阿弥陀寺に寓居していたが、2年後34歳で病死したという。井戸に身をなげたという説もある。
宗成の勇猛さと誠実さが評価されていたので、秀忠に再採用され、のちに柳川城主に復活をとげた。
大阪冬、夏の陣や島原の乱では、徳川軍としてその勇将ぶりを発揮している。
地元では、立花宗茂を主役とした大河ドラマの実現を願う運動がはじまっている。
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