2011年9月1日木曜日

源頼朝と筑紫支配(改訂)

鎌倉幕府を成立し、天下統一に成功した頼朝だが、若い頃はそんな野望をもっていなかった。


伊豆に幽閉されていた頼朝が、成人の年齢になって最初に目論んだ行動は、地元の豪族の娘と縁をむすんで、その婿養子になることであった。
豪族の主が、オオバンで京都にのぼり留守のあいだに、その娘といい仲になり子供をつくることからはじめた。
その一番手は、伊東祐親の娘「八重」で、千鶴という子供をもけたが、帰郷した祐親が怒って子供を川に投げ込み、八重を菲山の江間小四郎(北条義時の幼名)に嫁がせてしまった。恐れた頼朝は伊東家に近づかなくなり、つぎの獲物をねらった。
二番手が北条時政の娘「政子」である。時政もオオバンで京都にのぼっていたが、帰郷したとき政子が頼朝のもとえ逃げたのを黙認した。

丁度この時期、以仁王・源頼政の挙兵がおこり、これに応じて頼朝も挙兵して、伊豆目代山木兼隆を倒した。
石橋山の戦いでは、伊東祐親は頼朝軍を背後から攻め敗走させたが、北条時政は動かなかった。

その後形勢が逆転して、足利、北条など各地の源氏軍が頼朝のもとへ集結したので、祐親は平家の頼朝追悼軍(維盛軍)に合流しようとするが、途中で頼朝軍に捕らえられた。娘婿・三浦義澄の奔走もあり、頼朝も過去の因縁もあるので命だけはたすけた。
娘八重の嫁ぎ先は北条義時であるから、頼朝としては、政子の兄弟の嫁とも関係したことになり、複雑だったのだろう。(別人説もある)
しかし祐親は、これまでの自分を悔い恥じて自ら切腹して死んだ。
(のちの仇討ちで有名な曽我兄弟十郎・五郎は祐親のの孫であるから、頼朝が自分が狙われたものと疑ったのも仕方が無いことだ。)

すこし前置きが長くなったが、現実路線思考の頼朝は、維盛軍が富士川の水鳥の音に驚いて敗走したあと、自分の軍を鎌倉に引き戻して、後追いを甲斐源氏の軍にまかせた。自分では関東平野を統治することを第一の目標にしていたからだ。

この頃頼朝は昔のように、源氏と平家で天下を分担して治めることを考えていたようだ。
しかし平家側で清盛の死あと、急激に統率力がなくなり、木曽義仲が京都に攻め込んで平家が逃げ出したときには、朝廷や安徳天皇に危害を加えないように繰り返し司令をだしている。彼の考えでは長期戦で平家軍が講和を持ち込んでくるのを待つことであった。
そのあと後白河法王の命で、義経が連続的に奇襲攻撃をしかけて、急速に平家を追い詰めて壇ノ浦で全滅させてしまい、安徳天皇を死なせてしまった。

結果的には筑紫の地まで、頼朝政権のもと属すことになったが、彼の頭には筑紫よりも北陸の地の平定が先にあり、平泉の攻略に勢力をあげた。

筑紫には朝廷直属の大宰府があり、当初は頼朝も大宰府に遠慮して平家側武家の統治だけを弟の範頼に命じたが、問題が多発した。

そこで範頼をよびもどし、かわりに中原久経と藤原国平を派遣して地ならしをし、鎮西奉行職をもうけて、腹心の天野遠景を任命した。
次第に大宰府の権限を取り込んでいくが、天野の武断政治のいきすぎが多く問題となった。

そこで全国に守護を配するときに、武藤資頼と中原親能の二人制として、筑前・豊前・肥前と筑後・豊後・肥後の守護を担当させた。少しあとに島津忠久を南部の大隈・薩摩・日向の守護に命じ、九州の御家人統率体制が出来上がった。

さらに武藤資頼を大宰少弐に任命することに成功し、公武二本立てだった九州支配が、鎌倉幕府側の支配下になった。
このように頼朝の九州支配は一歩一歩慎重に進められていったことがわかる。

武藤の子孫は少弐を世襲し、それが氏名となって戦国時代まで続いている。また中原の氏名は大友にかわり、九州は三人衆少弐(武藤)・大友・島津が割拠する武家の時代となった。



0 件のコメント:

コメントを投稿