9月15日は関ヶ原の決戦で、ほぼ1日で決着がついた。
黒田如水は1ヶ月と予想していたようだし、大半の大名も同様の思いだったろう。
歴史に IF はないというが、 その可能性はおおいにあったはずである。
歴史愛好家の推理を並べてみると面白い。
「上杉軍が西上する家康軍の背後を襲っていたら」
「織田秀信が野戦などせずに岐阜城に篭城していたら」
「大津城があと2,3日早く落城していたら」
「西軍主力部隊が大垣城から夜討ちを家康にかけていたら」
「毛利輝元が大阪城から出陣していたら」
「茶々と秀頼が西軍支援を鮮明にして資金援助をしていたら」
「本戦で、小早川秀秋が裏切り行動をしなければ」
こられの可能性の一つでも実現していたら、勝敗が逆転していた可能性はある。
愛好家はさらにその先まで推理してしまう。
一進一退だった戦況が、秀秋が西軍側にたって山をおり、西軍有利となれば、つぎのような展開となった筈である。
○島津軍が西軍に加わり、南宮山の毛利、長宗我部、長束なども西軍について行動をおこす。
○東軍は挟み撃ちとなり、家康も戦場離脱ができずに、討ち死にか捕虜になったかも。
○秀忠軍は健在だが、東軍からの裏切りがでて、武者狩りにあった可能性もある。
○茶々や秀頼、さらには朝廷も、家康追討の命令をだしただろう。
○上杉、佐々木も本格的に関東に攻め入る。
○伊達、最上も形式的に徳川についていたから、寝返って本領安堵をはかっただろう。
○前田も母の人質問題はあるが、もはや徳川のためには動かない。
さらに戦後の領地まで推理してしまう歴史愛好家もいる。
○もし徳川家康が生きていれば、大幅に減封のうえ、秀忠に相続させる話が、北政所や茶々の主導で出ていたであろう。駿河、三河あたりか、もっと遠くの東北か九州に移されたかもしれない。
○関ヶ原にいた武将たち、福島正則、黒田長政などはA級戦犯だから、戦場で生き延びたとしても、命はないだろう。
○浅野幸長のように、北政所というコネがあれば命はなんとか助かりそうだ。
○遠隔地にいた武将達で、加藤清正、黒田如水などは、結果をきいてからあわてて東軍の大名を攻撃し、生き延びたかもしれない。
○生駒親正、立花宗茂のように西軍に兵をだしていれば本領安堵や加増の可能性が大きいが、蜂須賀家政のように逃げていたものは、改易か大幅減封はさけられない。
あとは西軍の勝利組の処遇であるが、一般的には五割増しの石高がめやすである。
○最高殊勲者の小早川秀秋は、羽柴家にもどり秀頼の指南役となり、秀頼が成人するまで関白職についたはずである。これは三成が生前に誘っていた構想である。
○毛利は丁度輝元に実子が産まれ、廃嫡された秀元の独立問題がおこっていたから、小早川旧領の筑前を与えれば丸くおさまるし、さらに伊予や豊前あたりを加増されたかもしれない。
○上杉は関東の徳川領を引きうけるのに最適である。関東では武蔵、上野、鎌倉周辺だ。会津には未練はないが、佐渡の金山に近い春日山周辺と関東に通じる回廊地帯は確保したいところだ。
○佐竹義宜は会津復帰と常陸との回廊、堀秀治は越後から出て、米沢あたりにおさまり現状維持だろう。
○前田は結果を知って寝返っていれば、利長から利政に家督を譲って現状維持か少しの減封でおさまるだろう。
○西軍についても活躍はしていない織田家の秀信は岐阜城を維持されるくらいで、信雄も清洲城をとりもどすくらいだろう。
(九州・四国)
○島津は日向全域と肥後南部くらいは獲得できたはずである。
○鍋島は竜造寺とのややこしい関係を断ち切るため、佐賀をはなれて関東に進出すれば、おおきな道がひらけ、その後に小西行長が佐賀に入り肥前をキリシタン王国にしたかも。
○立花宗茂は、加藤清正の熊本城を獲得し、島津のおさえとして君臨しただろう。
○大友は豊後を取り戻せたか、あるいは貢献度が少ないので半分かもしれない。
○長宗我部は伊予か阿波の一部の加増となっただろう。
(東国)
○真田昌幸は高い評価をされれば、信濃か甲斐か相模の大名になった可能性がある。
○大谷、丹羽、宮部、長束なども加増組である。
○三成や兼重は、自分の加増はほどほどに抑えて、反感をかわないようにしたであろう。島左近らを独立大名にするため、東軍についた筒井家のあとにはめ込み、実をとるような人事をしたであろう。
三成や兼重になったような気分で、勝手な人事を考えるのも、歴史愛好家の楽しみである。
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