2013年1月18日金曜日

豊前での黒田と宇都宮の戦跡と館跡(改訂版)

 大河ドラマの主人公中津藩主の戦国武将、黒田官兵衛(1546~1604年)は、福岡市よりも、わたしの家内の故郷「京築地区」や大分県中津市とのゆかりが深い。
 とりわけ黒田家と合戦を繰り広げた豪族、宇都宮氏が拠点を置いていた築上町の観光関係者らは「古里をぜひ、物語の舞台に」と期待を寄せて、番組を地域おこしにつなげようと、すでに県境を越えた自治体間の連携も始まっているという。

 官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、豊臣秀吉の軍師として全国制覇を支えたことで知られる。
1587年(天正15年)の九州征伐の武勲で、京築地区や大分県北部などの豊前6郡12万3000石を与えられ、まづ馬ヶ岳城を拠点としたが、すぐに中津城を築城した。

中津城中心に周辺に築城


 翌’88年、築上町を拠点に一帯を治めていた宇都宮氏の最後の当主鎮房を攻撃し、その後中津城の和睦の会合の席で謀殺して、同氏を滅ぼした。
築上町でのシンポジュウムで、小和田先生の話では、黒田官兵衛は地元豪族にたいして、黒田に従えば現在の領土は安堵すると宣言していた。 宇都宮氏もそのつもりで安心していたのに、秀吉から四国への移封命令がでた。 しかもその正式書類も届かない状態が続いた。 そこで遂に反抗の兵をあげたようだ。
官兵衛も兵力戦では解決が長引き、肥後での佐々の失敗のようになるのをおそれて、謀殺の手をえらび、 自分も隠居して長政に家督を譲ったと思われる。
秀吉の死後、家康の勢力が増大し、関ケ原の戦がおこる。
長政の軍隊は関ケ原で東軍として活躍するが、九州では東軍はわずかで、西軍派が圧倒的だった。(下図の細川はまだいない時代)

官兵衛が軍資金を投入して兵を集め、急遽侵入してきた大友一族と戦い、石垣原の戦で滅ぼし、さらに周辺の城も平定した。






さらに加藤清正と組んで、島津攻撃まですすんだが、家康の休戦命令にしたがって、兵を収めた。
 黒田家はその後、関ヶ原の戦いを経て、筑前・福岡藩52万石に移ることになり、官兵衛も中津を去った。
 
京築地区には一連の攻防を伝える城跡や寺院などが多数あり、なかでも宇都宮氏の地元、築上町の観光、行政関係者らは「官兵衛に負けた土地で反感もあるが、歴史を通して、もっと地域を知ってもらいたい」として、ドラマによる地域おこしへの期待が大きいという。
 
 我が家も家族で、平成25年10月12日に求菩堤温泉にとまり、13日にそこの歴史資料館で如水の書を見る。
その後32号線で城井谷にでて、城井上城の巨岩をみる。3丁弓岩なども迫力があった。

東に下って天徳寺で宇都宮鎮房らの墓をおがむ。
さらに松丸の宇都宮館あとをみて、蔵内館を見学。蔵内は当時、宇都宮の家臣であったことを知る。
豊津(みやこ町)にでて、馬ヶ岳の登山口まで行った。
その後昨年のNHK大河ドラマの後半で、黒田長政に謀殺された宇都宮鎮房の寒田屋敷跡が、ドラマの後の史蹟紹介で放映された。(9月21日)
家内の叔母の家が寒田にあり、家内もその家に似ているなと一瞬思っていたらしいが、そのままに終わっていた。
正月に兄弟姉妹が集まった時にこの話がでて、叔母の子の報告で、やはり叔母の家だったことがはっきりした。
叔母夫婦は10年位前に他界して、家は古民家のまま放置されているのだが、寒田の郷土史研究家が、このあたりに宇都宮館があったらしいとでも言ったらしい。
叔父・叔母は祖先が宇都宮の家臣だったらしいことは聞いていたが、文書などの資料は皆無で、確証はなにもないし、子供たちは皆都会に出ていて、空き家のままである。その写真が今手元に無いのが残念だが、それがNHKで史蹟として放映されたのには、いささか驚いた。
じつは築城町の教育委員会は、少し下流の松丸に宇都宮氏館跡があり、中世では九州最大級であると、数年前発表していた。
私も2年前その館跡にでかけたことがあるが、発掘調査跡は埋め戻されて、普通の畑になっていた。
宇都宮氏館跡
NHKも、ここでは館跡の映像にならないとと考えたのであろうか。
宇都宮鎮房の長男朝房は肥後で加藤清正軍に殺されたが、清正はその地に宇都宮神社を建立している。
肥後木葉の宇都宮神社
黒田のあとに中津城に入った小笠原長円は、中津に城井神社を建立して、城井大権現を、城の守護神として祀っている。
中津の城井神社

宇都宮鎮房の家臣は、黒田官兵衛が中津に入国した際に姫路から持参した阿弥陀如来を移した合元寺で待機していましたが、黒田軍に滅ぼされ、築城の城井城も落とされてしまいます。
宇都宮の家臣が黒田勢により暗殺された中津の合元寺の壁は血にまみれて赤く染まり、以後、何度塗り替えても赤く染まるため、ついには赤くしているそうです。

合元寺の赤い壁


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