2013年1月28日月曜日

少年使節の派遣

■【天正遣欧使節出港】天正十年(1582)1月28日

今日は大友宗麟・有馬晴信・大村純忠が欧州に向けて4人の少年使節を派遣した日。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された天正遣欧使節の肖像画。
九州のキリシタン大名として知られる大友宗麟・有馬晴信・大村純忠は、ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁させるための使節として四人の少年を選び、彼らはこの日イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとともにローマに向け長崎を出港しました。
少年使節は正使に伊東マンショ、以下千々石(ちぢわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの四名で、マンショは伊東義祐の孫、ミゲルは有馬晴信の従兄弟(大村純忠の甥)にあたるものの、さほど身分が高い少年ではありませんでした。

長崎を後にした彼らはマカオよりマラッカを経てインドへ至り、さらに喜望峰を回ってリスボン・マドリードを経て、三年に及ぶ航海の末にローマに到着します。
現地では歓迎されて教皇への拝謁も滞りなく済み、ローマの市民権をも与えられました。彼らは無事に大役を果たして天正十八年(1590)六月二十日に帰国、活版印刷や銅版画の技術をもたらすなど産業面での功績を残しました。

しかし、当時の日本は彼らを歓迎しなかったようです。
同十五年六月には豊臣秀吉がバテレン追放令を出しており、彼らは公然と布教できる立場にはありませんでした。慶長十九年(1614)三月には江戸幕府がキリシタン百人を海外追放するなど弾圧は続き、マンショは布教に従事することを得たものの、ミゲルは棄教し、マルチノは海外追放され、ジュリアンに至っては処刑されるという不遇な晩年を迎えることになります。

伊達政宗の少年使節派遣は有名ですが、九州からの派遣は埋もれているようです。 

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