大友宗麟が豊後海部郡津久見館で病したのは天正十五年(1587)5月23日。享年58歳。
豊後大友氏二十一代当主・大友宗麟は享禄三年正月三日、大友義鑑の嫡男として豊後府内城に生まれました。
しかし父義鑑は異母弟の塩市丸に家督を嗣がせようとしたことから内紛が起き、宗麟を支持する家臣に襲われて重傷を負い、塩市丸は殺害されるという事件が起きます(『大友二階崩れ』)。
この内紛を鎮圧して家督を相続した宗麟でしたが、やがて周防大内氏の滅亡後に急速に台頭してきた毛利元就と北部九州や立花山で争いました。
長らく一進一退の戦いが続きますが、毛利氏は元亀二年(1571)六月に元就が没すると九州から撤退、これにより宗麟は九州六カ国に及ぶ大版図を得ることになります。
宗麟は天正元年(1573)、名目上は家督を子の義統に譲って後見役を務めますが、依然として実権は握っていました。同五年正月、島津氏に追われた日向の伊東義祐・義益が宗麟を頼って落ち延びてくると、両者に島津を討ち伊東氏の旧領回復を約束しますが、これが大友家凋落のはじまりでした。
老臣たちの多くは反対しますが宗麟は聞かず、十月に大軍を率いて臼杵を出陣、日向へと入りました。十一月十二日、宗麟は耳川の戦いで島津氏に大敗を喫し、やがて義統との対立や田原親貫の反乱などもあり、往年の勢いはすっかり失われていきました。
同十四年三月、島津氏の北上に窮した宗麟は上坂して豊臣秀吉に謁し、助けを求めます。やがて秀吉は島津氏征伐へと動きますが、同年十二月にはついに島津氏の軍勢が豊後丹生島城(大分県臼杵市)を囲みました。籠城した宗麟は「国崩し」と呼ばれる大砲を放って島津勢を撃退しますが、これが戦国大名としての宗麟が見せた最後の意地でした。
翌年には領国の大半が島津氏に奪われますが、秀吉の大軍の前に島津義久は降伏、九州は平定されました。
翌年五月三日、秀吉は義統に対して豊後を安堵、宗麟には日向一国を与えますが宗麟はこれを辞退、それから一ヶ月も経たないこの日、津久見で没しました。
筑前にたどる豊後大友の足跡をテーマ。
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