2015年7月17日金曜日

中山忠光卿(悲劇の家系図)

幕末史で多くの勤王派の志士が命をおとしたが、公家で犠牲となった人物が中山忠光卿である。
権大納言中山忠能の子で、姉の中山慶子は明治天皇の生母である。

早くから尊皇攘夷派の志士と交わり、ひそかに長州藩に身を投じて、久坂玄瑞の光明寺党の党首として下関における外国船砲撃戦に参加したり、生野義挙の支援をした。
大和行幸の詔が出されると、攘夷先鋒の勅命を願う好機として、吉村虎太郎らと組み天誅組のリーダーとなり、大和五条で挙兵したが、その戦いに敗れて長州藩にのがれてきた。

しかし長州藩も俗論派が主流をしめる時期であり、支藩の長府藩に預けの身となり、一部の過激犯により暗殺されてしまった。
豊北町田耕の渓谷に暗殺地の碑と中山神社の祠があるが、当時は病死として隠蔽された仮の墓地であった。
本格的な中山神社と墓は、下関市JR綾良木駅の海岸側500mにあり、慶応元年に長州藩が建立した。
中山神社

裏山にある忠光の墓

忠光の曾孫娘にあたる浩(ひろ)は、清国ラストエンペラ愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁いでおり、その娘「慧生」の心中事件は有名だ。
愛新覚羅 溥傑・浩


家系図


戦後北京での病死後に夫溥傑が来日した折に、この境内に愛新覚羅社が建てられた。
愛新覚羅社
悲劇の歴史の家系である。



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