2015年7月3日金曜日

澤宣嘉(七卿の一人)の生野義挙と山田顕義

幕末の8・18の変で、京都より追われた七公卿が長州に落ち延び、二人脱落して九州大宰府に来たときは五公卿になっていたといわれる。
一人の錦小路頼徳は山口で病死してしまったが、今一人の澤宣嘉は、脱落ではなく明治まで存命し、活躍している。
澤宣嘉

平野国臣が農兵を組織し、長州の河上弥市(南八郎)らの奇兵隊とくみ、澤宣嘉を擁して長州を脱藩して、但馬の生野代官所を襲撃し占領した。有名な「生野の変&生野義挙」である。
生野義挙跡

しかし幕府軍の反撃にあって大敗し、河上ら奇兵隊有志十三人は自刃、平野は捕らえられて斬首された。
正義十三士自刃の跡

澤宣嘉は出石藩の高橋甲太郎、伊予の田岡俊三郎、阿波の森源蔵らに守られて巧みに生野を脱出して、伊予の小松藩士に匿われ、さらに長州の白石正一郎宅まで逃れて、明治をむかえている。
白石正一郎宅

明治新政府では、参与・九州鎮撫総督・長崎府知事となり、さらに外国官知事から外務卿となり、外交政務に携わったが、その後明治6年に38歳で病死した。
河上の又従弟であり、明治政府の元勲になり、日本大学を創設していた山田顕義が、明治25年に生野を訪れて、河上の墓参りをすませ、ついでに生野銀山を視察した。
山田顕義と河上弥市の系図

生野銀山

ところが太盛三番坑道入口で突然倒れて死亡した。49歳だった。当時皇室財産だった銀山で元勲が事故死したのではよくないので、長年病死とされていた。
昭和63年に発掘調査された山田の頭蓋骨には大きな外傷があり、事故死を裏付けるものであったという。長州と生野の因縁話になっている。
明治維新で活躍し明治政府の要人となった長州人は、長州での生誕地や自宅跡を、死後に地元に寄付して、教育費や地元の振興に役立てた人が多い。
木戸孝允の木戸神社、井上馨の井上公園、山田顕義の屋敷跡などをおとずれた。
木戸、井上は有名だが、山田顕義が「花燃ゆ」に登場しないのを残念がっている人も多いようだ。日本大学の設立者でもある。



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