2015年7月26日日曜日

安川家と玄洋社と明道館

安川敬一郎は平岡浩太郎と炭鉱経営で懇意になり、玄洋社との縁ができて、頭山満とも知り合って玄洋社員となった。
中国の孫文の支援活動などを、頭山・平岡などと共に行った。
安川敬一郎の像
その子安川第五郎は、修猷館にはいり、玄洋社所属の明道館に入門して柔道をならった。2段の段位をもらった。
広田弘毅や和田三造なども明道館の門下生であった。
安川第五郎の肖像画
(和田三造 作品)
安川電機を創業し財界で活躍していた第五郎は、戦後公職追放される。
終戦直前に出来た「大日本政治会」の九州支部長になっていたからだろうと思っていた。
玄洋社の理事になっていたことは全く忘れていて、理事会に出席したこともなかったという。
しかし玄洋社理事だったことが、公職追放の理由だったという。
玄洋社跡





昭和26年に、明道館再興の委員会ができるとき、公職追放解除の直前だったが、第五郎は柔道の健全な発展を望んで、委員長を喜んでひきうけた。
明道館跡
明道館柔道之碑




晩年、第五郎は東京オリンピックの組織委員長に就任した。
当初の計画案では、柔道競技は水泳競技終了後に、代々木の水泳場のプールの上に、板をはってマットを敷き、ここで柔道競技をを行う予定であった。
第五郎は、日本の国技を風呂桶の上でやらせるのは何事かと、正力松太郎らと協議して、新しい武道館の建設に切り替え、オリンピック後も多目的につかえる武道館の建設に成功した。
明道館魂の成果であろう。
東京武道館

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