2016年1月28日木曜日

乾隆帝(けんりゅうてい)

乾隆帝(けんりゅうてい)(1711~1799)は、中国、清朝の第6代皇帝で、清王朝の最盛期を創出した。

幼少より祖父の康煕帝に愛され、25歳で皇太子密建法により即位し、祖父の在位期間をこえることをはばかり、60年間帝位にあったのちに退位して太上皇帝 (上皇) となるが、上皇時代も事実上の権力者となり、実質的な在位期間は中国歴代皇帝で最も長い。
治世の初期には軍機処を軸として皇帝権の伸長に努め、朋党、皇族の結党を禁じ、満州人と漢人の反目を防ぐなど内治に重点をおいた。


中期には外征に力を尽くし、モンゴルのジュンガル部を、内紛に乗じて制圧し、天山北道・南道を 完全に支配し、さらにチベットを制圧し、南方のビルマもベトナムも内乱時に介入して朝貢国にした。

やがて、タイやラオスも朝貢するようになり、朝鮮・琉球も衛星国となった。
このように中国のほかに内外蒙古、新疆、台湾、チベットを領土としたので、中国領土は最大のものとなった。
彼は、辺境に10回出兵して全部戦勝したので、自分のことを「十全老人」と号した。 
(「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征の詳細。

しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。

文化方面でも、多くの学者を集めて書物の編集にあたらせ「四庫全書」の編集は特に名高く、また、イエズス会宣教師によりヨーロッパの学問、技術が伝えられた。


乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクションを収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。

これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。


しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。

乾隆帝が清代に莎車(現・新疆省)を陥落し、都へ連れ帰った美女
香妃の話があり、乾隆帝が香妃に執心を燃やした理由は、その姿が美しいことに加え、体からなんともいえない芳香が放たれていたためだということになっているが、これは死後百年以上あとに漢民族により作られた話だ。

1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。

中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。

これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。

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