2016年8月19日金曜日

徳川慶喜の敵前逃亡


慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。
1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵には、「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と厳命する一方、自分は陣中に伴った側近や、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。

勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような敵前逃亡にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。


慶喜は天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することで政権を成立・維持していくつもりだったこと、それが錦の御旗学校他勢力に渡り、たとえ薩摩に討ち勝っても、朝敵の汚名に対峙する覚悟が無かったなどの抽象的な説である

作家の司馬遼太郎は、敵前逃亡時に徳川慶喜の心理に、決定的ダメージを与えた情報を、具体的にあげている。

「徳川の歴史上、最大の忠臣である近江彦根藩の井伊家が、彦根から真っ先に南下して、鳥羽・伏見の戦いに飛び込んでくるべきだ。
しかし彦根藩は、異例のことだが上士以上の大衆討議にかけた。その結果徳川のために最後まで戦おうという票は、わづか3票しかなかった。
もう徳川への忠誠心は小さなものとなり、新しい時代へ参加することが何よりの正義だという考え方に動いていた。
迷っていた慶喜はこの情報を知ってすべてを悟り、敵前逃亡してひたすら恭順の態度を貫いたのだ。」

武田の遺臣より徳川家にとりあげられ、関ヶ原や大阪の陣で赤備えで先頭部隊をつとめ、中老や大老の要職をつとめた井伊家に見放されたことは、慶喜に大きなショックを与えただろう。

しかしその後、江戸の無血開城の折衝を行った勝海舟は、慶喜の性格をよく知っていた。慶応二年の二次長州征伐のときも、大阪城にいた慶喜は、劣勢の幕府軍を立て直そうため最前線に出かけようとしたが、嵐が来たり、小倉落城の知らせがくると、あっさりと出陣を断念し、解兵の勅を得る方針に切り替え、後の交渉を勝海舟にまかせた。

幼少のころより「英明にして胆力あり」いわれたと慶喜でしたが、その人間性に、ひ弱さがあったといえそうだ。

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