2018年9月2日日曜日

安場保和

横井小楠の門下として、嘉悦氏房・山田武甫・宮川房之らと並ぶ四天王と称された。勝海舟は「小楠の弟子といえる者は安場保和ぐらいなものだろう」と言ったと伝わる。

小楠が松平春獄に招かれ、福井藩に政治顧問となったが、安場も随行している。戊辰戦争では、安場は江戸城の引き渡しの場にも出ている。

やすば・やすかず。1835年生〜1899年没。明治期の官僚・政治家。
明治維新に功があり、華族に列して男爵。

肥後熊本藩士・安場源右衛門の子として熊本城下に生まれた。幼名は一平。号は咬菜軒。
細川藩家老の家柄で、先祖の安場一平は、東京高輪の細川藩邸で、預かりとなっていた播州赤穂浅野家筆頭家老・大石良雄の介錯を行った。
この縁で安場家は元禄赤穂事件に造詣が深く、現在の安場家当主安場保雅氏は全国義士会連合会の会長をつとめている。
8歳で熊本藩の藩校・時習館に入り、選ばれて居寮生となった。横井小楠門下四天王と称された。
明治元(1868)年の戊辰戦争に徴士として新政府軍に参加。明治2年、東京府大属に任じたのをはじめ、旧仙台藩・一関藩領に設置された胆沢県の大参事となり、後藤新平・斎藤実・山崎為徳など地元の俊英な少年5名を見い出し、県庁給仕とした。
明治3年、主に旧庄内藩の支配地域を管轄した酒田県の大参事となった。
明治4年には熊本藩少参事となり、嘉悦氏房らと藩政改革・廃藩置県に尽力。
同年、西郷隆盛・大久保利通の推挙により大蔵大丞・租税権頭に任じられ、就任直後に大蔵大輔・大隈重信の弾劾を行って否決された。
大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
皮肉にもこれが政府分裂の危機感を高めて、廃藩置県による政府内再結集への動きにつながった。
明治5年には岩倉使節団に大蔵理事官兼心得として随行したが、英語を理解できず、岩倉に懇請して途中で単独帰国した。
帰国直後から福島県令となった。肥後細川藩出身ということから、薩摩・長州の藩閥政府と距離を保ちながら、戊辰戦争後の士族反乱から自由民権運動に至る途上の東北地方の人心慰留につとめ各地の開拓と開発を行った。
洋学校・医学校を造り、機械による製糸工場を作り、教員養成所も造った。さらに、明治政府の殖産興業策の一環で郡山の安積原野の大規模開拓に着手した。政府に金七千円の開墾資金の交付を願い出て、中条政恒を登用し、推進にあたらせた。
オランダの技師・ファン=ドールンを招聘し、当初の構想である東北地方を横貫して阿武隈川から猪苗代湖に至り、阿賀野川に抜ける大運河構想を破棄し、鉄道建設に取って代わらせた。また疏水方式による通航が出来ない通水のみの機能に絞って実現させ、郡山地方周辺の開発に土台を築いた。
明治8年に愛知県令となった。殖産興業やインフラ整備のほか、名古屋城の金の鯱も復元させている。
明治13〜18年に元老院議官。元老院議官時代には、日本鉄道会社の設立にも尽力。西南戦争で国庫が空になり、東京-京都間の鉄道工事が大津あたりで止まっていたのを、民間会社で再開させ、華族らから資金を募集し、利子保証を国が行う鉄道会社条例および鉄道会社利益保護保証法の決議を行なった。
明治17年に東京-高崎間が開通し、東北は仙台までという岩倉具視を説得し、青森まで延ばした。
また、北海道の根室から千島列島を北上して、シュムシュ島に渡り、帰りには国後島や根室から陸路北海道の内陸部を調査し「千島警備及び北海道開拓に対する意見書」をまとめ、参議・伊藤博文に提出し、北方の重要性を説いた。


明治19年に杉山茂丸らの招聘により福岡県令となった。筑後川改修・門司築港に尽力。九州鉄道会社によって、門司-熊本間に鉄道を建設した。また、地方官会議幹事として活躍。
しかし明治25年に、福岡県知事として第2回衆議院議員総選挙における選挙干渉の中心となり、問題となり白根専一内務次官とともに辞職させられた。

その後貴族院議員、国民協会の幹事長に就任。
明治29年に男爵。
明治30年に北海道開拓意見書が評価され、北海道庁長官に任じられたが、しばらくして辞任。
明治32年:没。

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