2018年9月4日火曜日

物集高量

物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 1985年10月25日)は、東京府出身の国文学者作家物集 梧水名義による著作もある。

幼少時代


国学者物集高見と夏子(旧姓岩田)の長男として東京市神田区駿河台(東京都千代田区神田駿河台)に生まれる。両親共に大分県出身。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、1882年夏まで山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。

1882年に帰京し東京市本郷区弓町(東京都文京区本郷)に住む。この時1883年、父の高見が東京帝国大学講師となった。1884年、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年2月3日はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。療養期に母や姉から疎んじられ、金食い虫と呼ばれて屈辱に耐える。1889年11月、母と姉が相次いで病死。1891年に継母を迎える。

中学時代


脚が悪いため小学校に行かず、私塾で数学、英語、漢文を学んだが1893年10月15日、体操の授業を免除する条件で旧制郁文館中学校に入学。教師の一人に土井晩翠がいた。

私塾出身という経歴を持ち、体が悪いために、同級生の一人から、下校時に突き飛ばされて踏み倒されるといういじめをたびたび受けたが、大きなグループに属しているといじめを受けないことを発見し、仲間を集めて回覧雑誌『木の葉天狗』を発行、自らも小説を書く。このころの友人に石原純三宅恒方がいる。1896年、この時期、一部の友人たちの影響で稚児趣味に染まる。

1897年、同人仲間の紹介で二葉亭四迷と面会。同年、稚児趣味を持つ少年グループ同士の乱闘に参加し、警視庁谷中警察署に補導される。退学処分は辛うじて免れた。

1898年、中学を16番の成績で卒業。国民英学会正則英語学校に通学して英語を学び受験対策を立てたが、第一高等学校受験に失敗し、神経衰弱となる。1年間の浪人時代に「面影」「お杉」「稲荷屋」などの小説を書き、『文庫』『新声』といった雑誌に掲載される。

高校時代、そして大学時代


1899年第三高等学校第一部文科乙類に入学。野々村直太郎や南日恒太郎坂口昂、前川亀次郎の教えを受ける。同級に阪倉篤太郎(のち三高校長)、浜田耕作(のち京大総長)など。在学中、小説「闇」を「中学文壇」に投稿し、第三等に入選。このことがきっかけとなり、長篇小説「女太夫」を「富士新聞」に連載する。原稿料はなし。

1902年6月、三高を卒業。同年9月11日、父の意向で東京帝国大学文学部国史科に入り、三上参次萩野由之田中義成黒板勝美ラファエル・フォン・ケーベル小泉八雲などに師事。 ビリヤードに熱中し、1903年、大学を中退して作家になることを考えて江見水蔭に入門を申し込んだが、文筆で生計を立てることの難しさを説かれて断念する。次いで新派俳優の藤沢浅二郎の座付役者になることを企てるが、同級生の小山内薫から忠告を受けてやはり断念せざるを得なくなる

1905年博文館発行の『女学世界』に女学生向けの小説「秋の江」を発表して初めて原稿料5円を得る。『女学世界』主宰者松原二十三階堂(本名・松原岩五郎)の世話で横山源之助、塚越佇春、河岡潮風、二葉亭四迷たちに会う。

同年、帝大国史科を卒業。卒業論文は「祭神の分布」。国史学には最後まで興味を持てなかったという。

1904年、大学在学中から日本淑女学校校主田中秀穂に依頼されて同校で無給の講師を務めていたが、1905年5月、経営難につき学校を譲りたいとの田中の申し出を受けて、同校の校主となる。しかし同校大学部国文科2年生のSと恋に落ち、このことが学内で問題視されて休職。このころ、Sとの恋を強姦事件として「二六新報」に報じられて絶望し、Sと共に大宮心中を企てるが、友人吉野作造に止められて未遂に終わる。この後、Sとは離別した

1905年末、日本淑女学校の設備が文部省の定める基準を満たしていないことが判明し、同校が閉鎖に追い込まれる。

同年11月、毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)への入社を望んで父・高見の知人の大隈重信に面会し、田中穂積に口を利いてもらったが不採用に終る

遍歴時代

1906年朝日新聞の第1回懸賞小説に「罪の命」と題する小説を応募。比叡山中学校在職中に第一席当選の報を受け、賞金500円(2006年現在の1000万円以上)を獲得。しかしこの賞金は父に全額持って行かれ、「廣文庫」などの研究費に使われてしまった。

この懸賞入選が縁となって、1907年大阪朝日新聞社に入り、夏目漱石虞美人草」の連載などを担当。1908年、父の助言で退社し、忠文舎という出版社の設立に参加したが、事業は不調。同年、馬賊の頭目の王国立と交際。将来満洲を支配すると断言した王により、その暁には物集を文部大臣に任命すると約される。この年に初めて見合い結婚して所帯を持つが、花嫁がかわらけだったために夫婦生活が齟齬を来たし、翌年には妻に逃げられた
1909年スリの親分“湯島の吉”に弟子入りを志願したが、脚が悪いので断られた。このころ、博打や女遊びや稚児遊びに興じ、久松の賭場を潰す。
1910年実業之日本社の寵児芦川忠雄を知り、芦川のゴーストライターを務めて生計を立てる。同年、英文学者村井知至と共に西洋笑話を翻訳した。
1912年松原二十三階堂の世話で博文館に入社。同年、物集家の侍女矢崎八重と世帯を持つ。この女性とは離縁や復縁を繰り返した1913年、博文館を退社して著述業に入ったが賭博癖は止み難く、借金をして債権者に追われた。

戦中戦後

1939年には多額の借金により差し押さえ処分を受けた。1950年には多摩川沿岸で遊泳者相手に脱衣休憩所を営んだが商売に失敗する。同年10月、妻の弟の矢崎寧之の板橋区の家作に転居、1951年から生活保護を受けた1953年、「内外タイムス」文芸欄に矢崎まゆみという筆名で投稿、しばしば入選する。1954年には「実話読物」誌に連載を持つが、質屋の利子の支払いに追われて苦しい生活を送った。
1956年からクイズに熱中し、数度にわたって賞金や賞品を獲得する(このクイズ熱は90歳代まで続いた)。1957年に妻の八重が病死した。
1964年折伏を受けて創価学会に入信させられたが半年で脱退した。

晩年

1974年、名著普及会が「広文庫」「群書索引」を復刊、これによりやや経済的に潤う。このため、1976年、生活保護の打ち切りが決定した。同年、東京作家クラブ賞を受賞する。
1979年、100歳の折に著書「百歳は折り返し点」を上梓。同年11月30日、『徹子の部屋』に1000回目のゲストとして出演した。特別出演の久米宏に「昔はね、色男、金と力はなかりけり、って言ってね、あなたは、現代の色男の標本だ。私は昔のハンサムボーイ、これから、私のライバルはあなただ(笑)」と発言[1]。また、「長生きするには恋をするのがいい。私は33人目の恋人と恋愛中」「200歳[2]まで生きるつもり」と豪語し、話題を呼んだ。天文学に興味を示し、時間の起源を研究したいとも述べた。
晩年の高量は体調を崩して板橋区の老人施設に収容されたが、老衰で死去する前日、若い看護婦のスカートに手を入れて婦長から叱責された。106歳で逝去した時は、東京都内の男性で最も長命だったことから、当時の東京都知事鈴木俊一弔辞を読んだ。墓所は東京都豊島区雑司ヶ谷霊園にある。


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