2022年10月28日金曜日

多賀城と東北の城‣城柵:先住民は蝦夷(えみし):みちのく:壺の石碑;外の浜

 多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。




奈良時代から平安時代陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。周辺はかつて「の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。

創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。

第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。

なお、多賀城の「」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載。

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。

この国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。

霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川賀美色麻富田玉造志太長岡新田小田牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。

北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田色麻柵・不明の1柵)を設置、これらは養老4年(720)、石背国石城国陸奥国に三分された陸奥国をふたたび統合し、多賀城という新国府の建設により、弱体化した陸奥国の支配強化を図った。

その他東北地方の守りとしてつくられた主な城と城柵は次のとおりである。






これにより、奈良時代の日本では平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が昭和36年(1961)から開始され、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、築地塀(ついじべい)や柵木列をめぐらせた政庁域が確認された。

その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲んだ区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石柱穴が多数確認され、正殿と考えられた。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(北緯38度17分58秒 東経140度59分53.5秒)、政庁正殿の北側には延喜式内社多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(北緯38度18分36秒 東経140度59分29.3秒)に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮(いちのみや)鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

蝦夷(えみし)

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。

統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。

しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。

蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。

ここに「東北王朝」という集団があったというのは、古田武彦先生である。幕末の戊辰戦争で解体された。


文学者は、「みちのく」という表現を多用した。白川の関から以北は、「未知の奥

の国」であり、それより奥は未知であるから、松尾芭蕉は「奥の細道」ともいっている。


みちのくの 奥ゆかしくぞ 思わゆる 壺の石碑 外の浜風  (西行法師)

外の浜は、青森北端の海岸で、その北は外国と考えられていた。

また「日本中央」と刻まれたなぞの石碑は、都母(つぼ)の石碑で、仙台ではなく青森にの都母に坂上田村麻呂が遠征してきた時に作ったという。

日の本という地名があり、日乃本将軍を名乗った豪族がいたそうだ。みちのくは、やまと政権とは別の国であったのだろう。


日本史上の謎! 坂上田村麻呂が残した伝説の「

時に壺の碑」の正体を追う!|テレ東プラス (tv-tokyo.co.jp)


藤原4代が栄えた平泉の源泉は、みちのくで発見された金であった。
これは百済から逃亡してきた人たちの技術により発見された日本で最初の金資源であった。
源平合戦で勝利した源頼朝が、引き続いて義経をかくまった藤原を壊滅させたのは、この金が本当の狙いであったようだ。


畿内からみて、みちのくは東北にあたり、瑠璃光の世界である。

仏教では薬師如来のすむ浄土である。

みちのくには奈良、平安時代から多くの薬師如来像が祀られているようだ。


都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 (能因法師)

東北、奥州、蝦夷は、都人にとっては、遠くはるかな異郷であった。

私の小学校時代は、奥羽地方という名称であったが、現在は東北地方と呼ばれている。




0 件のコメント:

コメントを投稿