2019年1月12日土曜日

御成婚60年

天皇の御退位を前に、両陛下の御成婚60年のことが話題になっており、テレビなどで記念番組があったり、京都では記念展覧会が開かれたりしている。
わたしも電気学会百周年記念行事の際に、身近に皇太子時代の両陛下におめにかかった縁がある。
その他は、御成婚時の記念切手をもっているくらいだ。
オークション情報をみると、切手料金の10倍程度の価格しか、していないようだ、

2019年1月11日金曜日

箱崎八幡宮の背景


今まできずかなかったが、箱崎八幡宮の楼門の最近の写真の後ろには、高層ビルが映っている。
最近の都市開発はこの辺までせまっているようだ。
昔の写真では全く見えなかった。



敵国降伏も金網に囲まれている。平和をまもる時代になっている。

2019年1月4日金曜日

聖徳太子と九州の糟屋の縁


聖徳太子は実在の人物でなかったということで、その名前が歴史書から消えようとしている。
しかし聖徳太子は日本人の心を真に理解して導き、憲法や宗教に教えを残した人物として、多くの人の信仰の対象となっている。 特に近畿、関西ではその信者も多いが、九州の粕屋でも歴史的に縁が深く、私はその史跡を調査してきたので、太子信仰の信者の一人である。

1)聖徳太子と粕屋の縁

聖徳太子の生誕は574年で、丁度蘇我馬子が大臣に、物部守屋が大連になった2年あとだ。 蘇我氏が寺を建てれば、物部氏が焼き払うような対立の最中に、飛鳥の地で生まれ、その生誕地の跡に橘寺が建立されたといわれている。

厩の前で生まれたので厩戸皇子と呼ばれたことは有名だが、その厩は筑紫の粕屋であったという説もある。

大和朝廷は任那や百済系の渡来民族で、崇神天皇を中心に勢力を強め、仲哀天皇の頃まで九州北部を中心に活躍し、応神・仁徳天皇の頃東征したとされる。
しかし欽明天皇以降も新羅を討つために、朝廷軍は筑紫の粕屋に西下し滞在たことが多く、欽明の娘もその滞在中に出産したという。
粕屋の犬鳴連山は、騎馬隊の馬のイナナキが響き渡っていたことから名付けられ、犬鳴川の川沿いに竹原古墳があり、その壁画には船に乗った馬の画が描かれており、古賀の船原古墳からは高級な馬具の装飾品が多数出土している。 厩が多数あったことは想定される。



竹原古墳壁画と船原古墳の馬具の一部


上宮法王家の家紋は橘であり、粕屋の立花山の地名に関連して定められたのかもしれない。生誕地橘寺の西側に二上山がのぞまれ、粕屋の立花山も昔は二神山とよばれていた。香椎宮の末社の一つに二神大明神があり、香椎台5丁目の公園に樹齢4千年の槙の大樹がある。山をご神体として崇めたのが後述の粕屋評造「舂米連」である。


地元豪族の磐井氏は、522年継体天皇の新羅援軍派遣に反対してして、朝廷軍と戦うが敗れてしまい、降伏のしるしに筑紫の粕屋の地を朝廷の屯倉として献上する。

粕屋の屯倉は物部一族の「舂米連」の領地となり、一族は摂津より下ってきて現在の古賀市鹿部田渕遺跡(みあけ史跡公園)付近に居住し、粕屋屯倉の生産管理を行った。舂米という名称は稲作を得意とする一族のようだ。

鹿部田渕遺跡



587年に蘇我馬子が宗教争いで物部守屋を討ち、大和朝廷は蘇我氏の独占体制となり、西日本各地の外物部も粛清をうける。蘇我氏は粕屋の舂米連の領地を没収し、これを仏教戦に16歳で参加した聖徳太子の所領にして、太子を味方に引き込んだ。

しかし太子はその管理を以前のまま舂米連に当たらせた。彼らは大いに感謝して、粕屋の久山に山田斎宮古賀に小山田斎宮をつくり、それぞれに聖母屋敷という太子の記念館を建設した。この縁で後述するように、太子と「乳部」の関係ができた。

現在古賀市の小山田にある小山田斎宮は、日本書記の神功皇后の項に記載されている。仲哀天皇が亡くなられたときは、三韓への出兵準備中であったため、すぐには御陵や廟をつくらずに、小山田邑に斎宮をつくることにされた。香椎宮に駐屯されていた頃であるから、少し奥深い小山田邑がえらばれたのであろう。

小田山斎宮
(小山田斎宮には、二丈神宮の文字の鳥居があったが、平成の地震でこわれ、今は斎宮の文字の鳥居に変わっている。)

小山田斎宮の案内板には、巨木の説明板だけが書かれていて、神功皇后に関することにはふれていない。日韓関係に配慮してのことであろう。いまや神功皇后伝説はタブーのようであるが、歴史的に古くいわれのある場所であることにはちがいない。
石の鳥居が二つあり、道路側の大正時代の新しい鳥居には斎宮と書かれているが、奥の古い鳥居のほうには「天神宮」とかいてあると、古賀町誌には記載されているが、どうもおかしい。
私には「天」でなく、一安?二女?に見える。よくよく見ると「二丈神宮」である。二丈は二上になり、二神に通じる。糸島の二丈町も二丈岳にちなむ名前で、もとは二上岳であったという。
壊れる前の鳥居

二丈神宮の文字



もしそうならば、糟屋屯倉の舂米連の先祖がまつられた二神明神に通じるかもしれない。仲哀天皇の軍隊にいた五大臣の一人物部膽昨連を祭ったのがはじまりで、物部系の舂米連が斎宮に合祀したのであろう。
いまは神主もいない無人の社で、くわしい歴史は永遠に闇の中である。古賀郷土史研究会のメンバーに呼びかけて、さらに調査をすすめることにしよう。


聖徳太子は父方・母方ともに蘇我氏の血統をひいた皇子で、その妃は4人乃至5人存在していた。そのうち第一妃の蘇我馬子の娘との間に生まれたのが嫡子の山背大兄王で、第二妃の膳部臣の娘との間に生まれたのが舂米女王だ。


膳部氏は斑鳩の龍田川付近を領有していた豪族で、朝廷内の供応役をつとめた舂米連の一族だったようだ。当時の習慣で娘の名前は、その養育費を負担する部族の名前をつける乳部制度があり、太子の娘に舂米王女の名前がつけられたらしい。粕屋の屯倉がその費用を負担したらしく、乳部の地名がつけられ、今では鹿部(ししぶ)として残っている。


舂米連の子孫は大化改新後も名前が残っており、粕屋評造舂米連広国の名前が刻まれた梵鐘が、京都の妙心寺に存在している。これは大宰府の観世音寺の梵鐘と同じ鋳型でつくられたものである。




妙心寺の梵鐘


2)聖徳太子の政治理念

聖徳太子は、推古天皇の摂政として様々な政治改革を行ったとされている。(一部には、蘇我馬子を悪人とするため、その政治を聖徳太子の手柄に置き換えたという説もある。


彼が行った最も重要な政策は、冠位十二階と十七条憲法の制定の二つだ。

冠位十二階が制定される以前は、各地の有力な豪族たちが世襲によって権力を受け継いできた。

聖徳太子はそのような制度を改め、生まれた時の身分にかかわらず各々の個人に対して能力に応じて冠位を授ける制度をつくった。冠位十二階制を制定した大きな目的は、簡単に言えば官僚制と中央集権国家の確立である。

当時、日本の隣側には隋という巨大な国が存在していた。大和政権は、隋に対し並々ならぬ警戒感を持ち、同時に隋から様々な学問や政治制度を吸収しようとした。そのため、大和政権は紀元600年から618年にわたって5回以上隋に国使を派遣した。隋という国の官僚制と中央集権的政治体制を学び、隋に侵略されないように政治体制を大きく改革し、国内の豪族たちが覇権を争い合うのではなく、日本人がまとまる体制を作ろうとした。

聖徳太子が制定した十七条憲法は、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」という条文から始まる。

これはいわば当時の官僚が守るべき教えであり、同時に今の日本人に通じるものをとてもよく言い表している。

第十条にはこう書かれている。「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」日本人ならば誰でも持っているに違いない寛容の心がここに表現されている。

そして、第十七条にはこう書かれている。「夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」重要な事柄は決して独りで決めてはならず、必ず他の人と話し合って決めなければならないということ。官僚制と中央集権国家の建設という目的が、日本人の寛容と思いやりの心にも触れるように表現した。

聖徳太子は仏教の教えを学んでいたが、十七条憲法は原始仏教とも中国大陸の思想とも少し異なる日本独自の考えを表した日本人の本当の憲法であり、心のふるさとに他ならない。

これらの理念は、聖徳太子の仏教の教えに現れており、仏教導入まえの神道と仏教が争うことなく、共存するように説教している。日本の宗教は一神教でなく、あいまいで、ファジーなところがあるが、和の心で総括されている。


3)法隆寺での聖徳太子信仰



第二妃の膳部氏の地元である斑鳩に、龍田神社がある。
ある日、龍田神が太子の夢枕にたち、斑鳩に仏閣をつくるように伝えた。これが法隆寺(当初は斑鳩寺)建立の起源とされている。現在でも法隆寺と龍田神社では、共同の宗教行事が行われている。
神道(しんとう)は、日本の古来の宗教であるが、教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話八百万の神自然自然現象などにもとづく多神教である。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされている。
聖徳太子は、仏教と神道が対立するものでなく、その和をはかるような宗教思想をもとめて、布教につとめた。

聖徳太子信仰は、法隆寺を中心に日本仏教の開祖としての聖徳太子を信仰の対象とするものとして始まった。
http://horyuji.asia/
(法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたとする説もある。)

聖徳太子は日本に仏教を広めた人物として、その後ひろまった天台宗、真言宗、浄土宗などの宗派で、開祖・高僧とおなじ扱いをしている。聖徳太子自身は出家してはいないが、実質的には徳の高い高僧という認識である。
聖徳太子は超人的な能力をもった人物として伝説化され、誕生から薨去までのあいだの人生の節目節目のエピソードが、つぎのように偶像化されている。



太子二歳像:(2歳の太子が合掌して「南無仏」と唱えたら掌に仏舎利があらわれた)

太子七歳像・童子形聖徳太子像:(太子は7歳で学問をはじめたという伝説から)

太子孝養像:(16歳の太子は、父・用明天皇の病気平癒を願って日夜香炉をささげて病床を見舞った)

謎の聖徳太子像


馬上太子像:(太子16歳のときに物部守屋を追討した姿)


勝鬘経講讚太子像:(太子35歳のときに、推古天皇に勝鬘経をご進講になった姿)
摂政太子像:(摂政として執政する姿)

といった、じつにさまざまな姿の聖徳太子像が造立されて、礼拝の対象となっている。
このような、日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地は、法隆寺の聖霊院である。聖霊院の本尊は、摂政太子像である。
といった、じつにさまざまな姿の聖徳太子像が造立されて、礼拝の対象となっている。

また夢殿のご本尊である国宝の救世観音は、聖徳太子の姿であるといわれている。



このような、日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地は、法隆寺の聖霊院である。 聖霊院の本尊は、摂政太子像である。 ただし、奈良仏教寺院での信仰行事は一般的な檀家制度ではなく、寺院のさだめる年間行事に、地域の信者や観光客が多数参列する形態でなりたっている。

来目皇子の墓


最近では古賀の船原古墳の馬具出土や沖ノ島世界遺産決定などで、聖徳太子の話がちらほらでてくるのを喜んでいる。

古賀の自宅は、奈良の地から、糸島の来目皇子の墓の地を結んだ直線上にあり、自宅の仏壇の側壁に、太子像の写真を張り付けて、庭石にしめ縄をはって、朝夕拝むという神仏習合の生活をしている。

聖徳太子像
聖徳太子信仰の主な資料は、日本書紀と法隆寺に伝わる諸史料である。 その間に矛盾が多くあり、学問的には聖徳太子は偶像であるという説が増えてきている。
しかし千年をこえる聖徳太子信仰の国民感情を急に打ち消すことは不可能で、文部科学省の教科書執筆指導要綱には、まだ飛鳥時代は聖徳太子を中心に記すことが示されている。
聖徳太子信仰は単なる迷信でないということだ。
「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」は、今の日本の基本理念である。
また、外国人ではなく純粋の日本人であることと、若くして出家した宗教家ではなく、俗世間で政治にたずさわり、世間は虚仮と悟り、引退後に神仏習合の宗教の道を開いた人生は、レベルの差は大きいが、私の人生と共通するものを感じるのである。


千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」へ行ってきました - YouTube

2018年12月26日水曜日

聖徳太子信仰と神仏習合


斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿

聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子は斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍を建立した。
(当時の斑鳩伽藍は消失し、現在の法隆寺は蘇我氏滅亡後に再建されたとされている。当初の宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、西院伽藍の裏手の若草伽藍であり、金堂や塔が火災で焼失した痕跡が残っており、斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、方位がほぼ同じで同時期の造営である。また、西院伽藍の東大門や西大門に沿う築地も同方向であるので、斑鳩宮造営と同時に築造され、道路や水路を広範囲に敷設したと推測されている。)
聖徳太子は、蘇我・物部の仏教争いに参戦した若い頃は仏教に心酔していたが、斑鳩宮を造営した頃から、蘇我氏の急速な勢力拡大による仏教と神道の争いに疑問を抱き、立松和平氏によると、「神仏習合」の道を志向し始めていたという。俗説ではキリスト教にも関心を示していたという。
法隆寺が再建されたのは、聖徳太子の遺族が蘇我氏に滅ばされ、太子の遺徳や説教に感化されていた天智天皇が、大化改新のあと白村江の戦にやぶれて、朝廷の威光失墜を回復するために行ったという説がある。その後の聖徳太子信仰の広まりで、法隆寺の拡充だけでなく、各地に太子村ができている。
「神仏習合」の歴史書によると、8世紀から9世紀半に、神社と寺院が結合して、仏になろうと修行する神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が、本来の神社の一隅または近隣地におかれるようになったという。
具体的には763年頃、伊勢国桑名の多度大神、常陸国鹿島大神、8世紀末に山城国加茂大神の例などが挙げられている。


10世紀なかばの平将門の乱のおこりは、一人の巫女が八幡大菩薩の使者と名乗って、「朕はみずからの位を将門に与える。この位記は菅原道真の霊魂が書いたものだ。」と託宣したことによる。


八幡大菩薩はもと宇佐地方の土着神で、奈良時代に国を外敵から護る神に高められ、平安時代に王城鎮護の神として石清水宮に勧請された神だが、菩薩とは悟りをひらく前の釈迦のことである。仏のなろうとする神で、ここに神仏習合の典型例があらわれている。
また菅原道真は、この事件の36年前に死亡して、観自在天神に転生したとされており、これは大日如来の化身である。古来の神祇信仰の神の霊魂が仏教の神として再生している。
反乱者平将門が即位の儀式を行ったときの宗教儀礼は、古来の神祇信仰と外来の仏教信仰の組み合わせで演じられたという。
その後、鎌倉、室町時代となると、上流貴族中心だった仏教信者は、中流武士階級から庶民階級までひろがり、その宗派も多様化しながら、江戸時代まで神仏習合はつづき、寺社奉行のもとで行政管理されてきた。
しかし明治維新で王政復古思想のいきすぎから、寺社分離が強制されたのは、歴史認識のあやまりであった。
敗戦後は、宗教の自由が復活されたが、寺社の実態はそのままであり、国民は両方に分かれて参拝しなければならない状態が続いている
ただ古く巨大な法隆寺などでは、寺の境内に金堂や五重塔などの仏閣を火災から守る鎮守の龍田神社があり、法隆寺の建立に当たって斑鳩の里が適地と告げた龍田神社の分霊だそうだ。



日本的仏教の元祖は、聖徳太子信仰と考えていいだろう。
https://wajikan.com/note/syotokutaisi/#i
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聖徳宗(しょうとくしゅう)は、日本の仏教宗派の一つであり、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を総本山とする。小本山に法起寺法輪寺門跡寺院中宮寺など末寺は、29ヵ寺。
昭和25年(1950年)に、法相宗からの独立を果たす(宗教法人として認可されたのは、昭和27年(1952年))。聖徳太子を宗祖とする。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」である。
聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭。
 「和を以て貴しとし、忤(サカフル)ことは無いように。人には皆、党(タムラ)があり、悟っているものは少ない。よって君父(キミカゾ)に従わない。また、隣の里とも違うだろう。しかし、上と和し、下と睦まじくして、事を論じて話し合って、諧(カナウ)するなら、物事は自然と上手くいき、なんでも成せるだろう。」
 少し意訳になるが、「人は、それぞれ所属するところがあるし、生きている場所によっても色々異なっており、その範疇のことしか考えない傾向があるが、異なるものに対して無闇に反発するのではなく、それを調和させることが最高に素晴らしいものだと悟るべきだ。上も下も分け隔てることなく本質にそって対話を行い、その結果として調和に導くことができれば、物事は自然と上手くいき、何事も成就していく。」ということが、述べられている。


2018年12月11日火曜日

西南戦争の敗走路:天の古道と湾洞峠

大河ドラマの影響で、この一月位の間に、西南戦争の番組をいくつも見た。
熊本城、田原坂の戦くらいは知っていたが、7ヶ月にわたる戦で、熊本、大分、宮崎、鹿児島の各地に戦争の痕跡が残っている。
西郷が軍の解散を決意したのは、延岡市外の北川町俵野という説と高千穂峡という説があった。敗戦経路には、高千穂峡(三田井)や椎葉などの山奥がふくまれているのは驚きであった。
武士である私学校党が、軽蔑していた庶民の徴兵軍に破れ、西郷の死後四ヶ月で木戸が病死し、翌年5月大久保が暗殺され、維新の3傑の死で「維新」は終結した。


宮崎県で、いま天の古道が脚光を浴びています。西郷どんの大河ドラマで、西郷軍が延岡から高千穂へ敗走するとき通った山道として、放送されたからです。


 昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。

 その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。
そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、「天の古道」です。

全長11kmの行程です。(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。

湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。

 同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
湾洞峠は山中の地名としては不釣り合いな名前ですが、山の谷間が入江のようになっている地形からでしょうか?
天の古道の開通祝いの行事のブログから写真などを転載させてもらいました。


わたしが訪れたころは無かったが、今は田原坂や各地に、遺跡の記念碑や説明板が設置されているようだ。


2018年11月24日土曜日

楠君の家の火災




 この新聞記事をよんで楠亮二さんの名前にびっくりした。六本松の旧制福岡高校の同級生だったからだ。
福岡男子師範付属小学校と県立福岡中学校では、1年先輩だったが、わたしが4修で福高に入って同じクラスになり、1年間玄寮で一緒に生活した。当時の集合写真でも近い場所におさまっている。

彼は九州大学医学部の楠内科の楠教授の次男で、医学部にすすみ、九州中央病院の病院長をつとめたあと、開業医として活躍していた。
しかしクラス会には全く出てこなかったので、卒業後は顔をあわせていない。
彼の1年年長の兄は、私と同じ工学部にすすみ、九大応用化学の教授をつとめたあと、九州産業大学にきた。
私と教授室が隣あわせだったので、兄さんを通じて彼の近況を聞いていた。
晩年まで、蛾の採集を熱心にやっているということだった。
火事の状況は、福岡シニアネットで知り合いの小川さんが近所だったので、そのFBでしり、その写真を転載させてもらっている。楠君は足が悪かったそうだが、なんとか逃げ出せたのは幸いだった。
奥さんの死亡は残念なことで、深くおくやみをもうしあげる。
出火の原因は不明だが、昼間のことで料理作業中のことではなかろうか?
家内も高齢なので、てんぷら料理などはしないようにしている。
もう他の同窓生も、ほとんど生存者がいなくなり、交流がないので、これ以上の情報はもうはいらないだろう。

2018年11月5日月曜日

九州王朝諸説 

3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けた。

高市皇子=筑紫君薩野馬説?

・天武天皇(大海人皇子)は、斉明天皇の子でも、天智天皇(中大兄皇子)の弟でもなく、倭国・海人族と係わる人物であるとみなし、天智天皇の第一皇子・大友皇子(弘文天皇)を討った壬申の乱(672年6月)は、天智天皇によって滅ぼされた旧倭国(九州王朝)の復権のために起きたという説がある。

・しかし、673年飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、唐の傀儡によるの専制政治を行った孤高(孤独)の天皇で、天皇の称号や日本の国号を制定し、日本の皇統は一統で神話の時代より今日に至るまでヤマトにあるとする日本書紀の編纂を命じ、ヤマトを中心とする国家神道や仏教を推進し、あわせて旧倭国の官寺を尽く廃寺にしているので、天武天皇が旧倭国の復権を考えていたとはとても思えない。
 
・また、天武天皇崩御(686年)後も、倭国・宗像国と係わる第一子の髙市皇子は皇位を継承していない。

・髙市皇子は、天武天皇(大海人皇子)の第一子(長男)で、母は宗像君(胸形・宗形)徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)といわれ、壬申の乱で全軍を指揮し勝利に導いた第一功労者である。
もしこの高市皇子が筑紫君薩野馬であれば、671年末~672年正月頃、唐から帰国した直後(672年6月)、ヤマトに上り、壬申の乱に加わったことになり、これだけの活躍をした背景に倭国の復権がかかっていたと考えることはできなくもない。

・しかし皇崩御後、皇位を継いだのは持統天皇(天智天皇の娘)であり、天武天皇擁立の最大の功労者であったはずの高市皇子=筑紫君薩野馬は、皇位継承できず、持統天皇にお飾り的な太政大臣に任命され、藤原京の建設に関わったものの、696年(持統天皇10年)に薨御した。

以後、皇位は、天智天皇の系譜が続くことになるので、この面でも旧倭国(九州王朝)の復権はなかったことになる。
・なお、同説の根拠としているもののなかに、高市皇子が中心となって建設に取り組んだ「藤原京」が、復古調の「周礼」(しゅらい)に倣った形で作られていることを挙げているものがある。
つまり、この周礼の形は、唐で8年間の虜囚生活を送るなかで「周礼」の影響を受けた筑紫君薩野馬が持ち還ったもので、周礼に倣う形で藤原京の建設をした高市皇子は、筑紫君薩野馬と同一人物だったからだというのである。

宗像君徳善と筑紫君薩野馬説?
・上記のように高市皇子の母は、宗像地方の豪族、宗像(宗形・胸形)君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)である。
そして、宗像君徳善は、海人族・宗像国の君で、宮地嶽神社奥の院古墳(奥宮不動神社)(福岡県福津市宮司)が、その墳墓と言われている。
・宗像徳善は、倭国(九州王朝)の宗像君であり、その孫高市皇子がもし「筑紫君薩野馬」であれば、その祖父宗像君徳善が倭王であった可能性も考えられる。
・因みに下記倭王系譜で「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」の讃の一代前が「藤(「勝」ともいう)」で、徳善の古墳がある宮地嶽神社の祭神は「藤の勝頼」で、かつ徳善の古墳とされる宮地嶽社奥の院(奥宮不動神社)の神紋が九州王朝を表す「三階松」で、徳善が倭王、或は倭王の系譜を引いていたことは間違いない。

宗像・沖ノ島の国家祭祀の国家は倭国
 ・宗像君徳善が倭王であれば、古代宗像君が沖ノ島で行っていたという国家祭祀(4~7世紀)の国家とは、宗像国を含む倭国(九州王朝)であり、絶対にヤマト王権ではなかったことになる。
 ・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に認定され、古代、沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が行われていたという説が固定化されたが、この説に対して疑問を投げかけている人たちは多い。
 また、ヤマト王権による国家祭祀の根拠とされた理由が、沖ノ島から三角縁神獣鏡が発見されたことによるが、三角縁神獣鏡は、今やどこででも発掘され、それをヤマト王権のものとする固定観念は、大和地方以外の前方後円墳はヤマト王権の許可を得て作られたものとする間違った固定観念と同じで、これら柔軟性のない固定観念は学術的に甚だ危険である。
・宗像国は、ヤマト王権に属していたものではなく、間違いなく九州の倭国に属していたはずで、663 年10月の白村江の戦いに際しては、倭王筑紫君薩野馬の呼びかけに応じて多くの軍船と兵士を出したが、その敗戦によりその多くの船と兵士を失い、国力の衰退を招いたと思われる。
その後、宗像国を含む倭国が滅亡し、ヤマトに吸収されたことにより、それまで沖ノ島で行って来た倭国のための国家祭祀が途絶えたのである。

・因みに宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)の祭神宗像三女神は、天照大御神と素戔嗚命誓約で誕生した神で、天照大御神は倭国につながる邪馬台国の卑弥呼(大日孁貴)あり、素戔嗚命は古代物部王国の祖神饒速日命の父(出雲神)であり、宗像三女神が最初に降臨した崎門山(六ヶ嶽の一峰)は、鞍手(弦田)物部王国(福岡県鞍手郡鞍手町)のなかにあり、もとよりヤマトで生まれた神ではない。

・3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府 (王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により 滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けたと思う。

その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に日本書紀」が言う、「天武」と言う人物は「九州倭国王筑紫君薩野馬(薩夜麻、大皇)」と、「その弟である大海人皇子(大皇弟)」を合算しして記述している。
列島の歴史は、「天智系」に先行、先在する「九州倭国」を中心に展開していた。
 そこに「天智系」が割って入ってくる。
でも「壬申の乱」で「天智ー大友」が一旦つぶされ、「光仁(天智の孫)、桓武」の代で復権する。
復権しなければ何も問題は発生しなかったのだが!
 「日本書紀、続日本紀」は、その最終権力者である「天智ー藤原系」の史書で、「九州倭国の存在を隠蔽している」。
「日本書紀」編纂の基本方針は、「神武が近畿地方に移動してきて以後、天皇は近畿地方にいて万世一系」だから。
「日本書紀の編者(改編者)」は、口が裂けても「天智―大友」で一旦断絶したとは記述することが出来ない。
そこでとんでもないことを考え、「天智と天武は兄弟」、これをキーにして、「日本書紀と続日本紀」を偽作して「光仁、桓武」に上手く繋ぎ、系譜の改編も行い断絶はないという史書を作成した。
 だから「日本書紀、続日本紀」は、「いたるところに、矛盾やほころびがあり、難解な訳の分からない史書」になっている。
「九州倭国」の皇統は、「筑紫君薩野馬(薩夜麻)」-「高市皇子(大皇の皇子)」ー「弓削皇子(高市の皇子)ー文武(草壁と阿閇の子ではなく、高市皇子と阿閇皇女の子)」ー「聖武(高市皇子の孫)」-「孝謙称徳(聖武の娘)」である。
「九州倭国の皇統」も「孝謙称徳」の代で、聖武が男子の後継者に恵まれなかったのと、天智ー藤原系との暗闘の結果、断絶してしまう。
そして時代は「天智ー藤原系」の時代へと変わっていく。

最後になる、「大海人皇子(大皇弟)」は九州倭国の皇統では「九州倭国王」に即位していない。「薩野馬(薩夜麻)」の次は「高市皇子(大皇の皇子)」である。

「日本書紀」は、「672年壬申の乱、673年天武即位」と記述しているが、「九州年号」では「661年の白鳳元年から683年の白鳳23年まで、改元がない」。 
本当に「大海人皇子(大皇弟)」が、壬申の乱以後に九州倭国王に即位していれば、間違いなく「改元」があるはずだ。
「日本古代史の謎」を考えるのに「九州倭国の存在」と言うのを考慮すると、「大局的に見て(謎)は全部解決するように思う。

補足:日本書紀の偽作:
「日本書紀」の言う、「継体」と「筑紫君磐井」による、列島の最高権力者争いは、「日本書紀の編者」により作られたもの。
列島の歴史を、実際に展開している「九州倭国」の存在を隠蔽しているのが「日本書紀」だ。「基本が近畿地方で万世一系だからだ。」。

近畿地方での「応神系」の皇統が「武烈」で断絶し、「継体」が近畿地方の権力者に名乗りを上げるが、「継体」が「九州倭国王筑紫君磐井」より「上位に君臨」していなければならない為の偽作だ。
「日本書紀」によると、「継体側」の大勝利だが、「筑紫君磐井」の後継者「葛子」が差し出したのは「糟屋の屯倉」一つである。
「九州倭国王筑紫君磐井の勢力範囲は九州島の北半分と西日本一帯なのに、これは変だ。
「日本書紀」の編者は、この時代にあった「物部」と「大伴」の勢力争いを隠蔽していて、継体と磐井」に置き換えて記述している。
近畿地方からの半島派遣軍が、九州で「反乱」を起こしたのは事実だが、すぐに「停戦協定」により終息している。
「磐井の反乱」ではなく「近畿の反乱」だ。
「磐井」の後も「九州倭国」は健在だ。