石田三成は有名だが、その父や兄の存在はあまり知られていない。今日はその記録をしらべた。
関ヶ原で勝利した東軍が、石田三成の父・正継の守る近江佐和山城へ攻め寄せる。
石田正継 |
大谷吉継は小早川の松尾山の隣の藤川台に布陣 |
関ヶ原で唯一自決した大谷吉継の墓 |
家康は村越茂助に命じて呼びに行かせたところ、秀秋は家老の稲葉正成や脇坂安治らとともにようやくやって来ました。
秀秋は寝返る時期が遅かったことに後ろめたさを感じており、家康の姿を仰ぎ見ることが出来なかったと伝えられます。
しかし家康は彼の労を謝すと、脇坂らも含めて佐和山城(滋賀県彦根市)攻めの先手を命じました。
十六日、家康は軍を三つに分け佐和山へと向かいました。
一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、
二番隊は細川・黒田、 三番隊は堀尾・浅野、
四番は井伊・石川らといった順で進発、三方から佐和山城を目指します。
東軍勢はこの日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)口へは小早川・脇坂・朽木・小川ら、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まります。
家康は近くの平田山に本陣を置いて軍を指揮、正午頃には城を包囲しました。そして真っ先に攻めかかったのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝でした。
戦場を脱出した石田三成は当時近江伊香郡の山中を彷徨っており、まだ帰城していませんでした。
城では三成の留守を父・隠岐守正継と兄・木工頭正澄らが二千八百の兵とともに守っていましたが、正継は徹底抗戦の腹を決めると、東軍勢に猛烈な射撃を浴びせます。
平岡らは切り通しから攻め上りますが、城方の津田清幽・重氏父子が必死で防戦、小早川勢は多数の死傷者を出して苦戦します。
しかし兵力差はどうしようもなく、やがて池田隊が裏手の柵を乗り越えて城内に侵入、小早川勢も続いて二の丸へと侵入し、ここで城方と激戦が展開されました。
残るは本丸のみとなったとき、家康は城方に関ヶ原の結果を伝えるとともに講和の意を伝えました。城方は戦意を完全に喪失し、正継は一族の自刃と引き替えに城兵や女子供を助命することを条件に開城を決意します。
家康はこれを認め、翌日に正式に城の引き渡しというところまで決まったとき、異変が起こりました。
十八日早暁、突如として水之手口の田中勢が攻め上り、城内に乱入したのです。結果的には連絡の不徹底だったのですが、城方は当然騙されたと思ったでしょう。
やがて本丸から火の手が上がり正継父子は自刃、三成腹心の家臣土田桃雲は三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付け、自らも十文字腹で果てたということです。
生き残った城兵らは助命されましたが、城は後に家康の手で跡形もなく破壊されました。
石田一族の菩提寺寿聖院 |
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