姫島の南対岸、浜崎(唐津市浜玉)は対馬藩の飛地である。
対馬から回航し港に停泊中の一隻の船中では、玄界灘に浮かぶ姫島を見やりつつ望東尼救出の手はずが練られていた。
対馬藩は、元治元年の跡目相続争いで三巴となり、長州藩 毛利斉の三女である第十三代藩主義章夫人は難を避け、その一派によって長州の実家へと移された。
その折、藩の重臣多田外衛の子供二人も辛うじて対馬を小舟で脱出した。木の葉のような小舟は、時雨やみぞれの海上を日数もわからないほど漂流して、運よく玄界灘の孤島である小呂島に漂着した。
望東尼は、その話を伝え聴き、とても捨て置く気持ちになれず、とにかく預かることにして、暮れの十二月二十八日、病身も顧みず氷雨のなか対馬藩士二、三名に対しても、空き家同然の庵に隠れ住むことを許可する。やがて全員を安全な糸島方面へ転居させた。
これらの潜伏に関わった対馬藩士多田荘蔵は、望東尼への恩義に加えて、望東尼への罪状の一つに対馬藩士の潜伏もあるらしいと知り、橋渡しをした藤四郎と相談をして、姫島から望東尼を救い出すことを計画した。
また、望東尼が文を書くについての片腕のような喜多岡を暗殺した実行犯の一人である藤も、その後、親友の平野の遺志「日本統一」を引き継いでいる喜多岡の実像を知ることとなり、二人に済まないことをしたと、後悔(後にそのことがもとで悶絶したと伝わっている)していた。
多田は、第二次長州征伐において、八月一日の小倉城炎上の後、水夫数十人が乗り込んだ船で八月二十日小倉を出帆し、対馬へ帰る。
その翌日、「将軍徳川家茂の喪につき長州再征休戦の勅命」となる。この時点で藤は「望東尼救出」を決断した。
九月十日ころ、対馬船が回航し停泊する予定の浜崎の港に、救出団六人が集結した。
長州の諸隊の一つである報国隊に所属する彼らは、長州再征休戦となったことで暇を持て余し、エネルギーのやり場に困っていた面々である。結束は素早かった。
九月十六日午後三時過ぎ、書き物をしていた望東尼は突然、囚屋の錠前を掛矢で打ち砕く音に、びっくり仰天、しかも戸が開くなり外に出るように促された。
何事かも解せないまま、おろおろしていると外に抱え出されてしまった。病は1日おきに熱が上下する状況であり、十ヵ月にわたって狭苦しい囚屋での起居のため、足腰は萎え歩行など無理であった。
一人は望東尼の荷物を取り片付け一括りにして持ち出し、望東尼は左右から抱えられ浜辺の船に乗せられる。一発の銃声を合図に全員が戻り、乗り込むやいなや沖へと漕ぎ出した。
一団は、さらに望東尼の孫助作をも救出しようと船を大島(宗像市)へ向けた。ところが助作はこの時まだ枡木屋の獄に押し込め(一八六七〈慶応三〉年八月獄死)られたままで、大島には別の三人の流罪人がいた。そこでその三人をも救出し、下関の白石正一郎の屋敷へと向かった。
藤は、この後、望東尼に付かず離れずで、その最期も看取った。
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