2024年11月2日土曜日
2024年10月31日木曜日
今年のノーベル平和賞
今年のノーベル平和賞に、日本の被団協が選ばれたことは、うれしいことである。
代表委員は、初代森瀧さん以降坪井さんなど数代がすでに亡くなっており、現在は田中さんがつとめられているようだ。
初代森滝氏 |
5代坪井氏 |
志賀島出身で長崎で被爆された谷口さんも、2代目代表委員をつとめて活躍されていたが、すでに亡くなっている。
2代谷口氏 |
現在の代表委員の田中さんが、オスロ―での授賞式で講演されるようだ。30人以上が出席するそうだ。
広島原爆資料館 |
長崎原爆資料館 |
長崎原爆資料館では、ノーベル平和賞が、核兵器のない世界の実現向けて、世界が大きく舵を切る契機となることを期待すると、乾板にPRしている。
今年は12月15日に、戦争とくらし展の会場で、わたしが体験した「原爆とラジオゾンデ」の講話をすることにする予定である。
ノルウェーは、1905年6月までスウェーデンとの同君連合という名の、ある意味スウェーデンの植民地であった。
しかし1890年代に入り、ノルウェー側が軍縮や調停による平和的解決を望む姿勢を強く見せるようになった。
これにより、ノルウェー国家に対して『平和的で民主的な』イメージを抱いたノーベルは、今後も国際紛争の仲裁や平和的解決を主導する役割を担ってほしいと願い、平和賞の授賞式をノルウェーで行うこととした。
平和賞に関しては、授賞式だけでなく選考もノルウェーで行われる。
ここにも、主体的に平和の概念を追求し続けるノルウェーこそ、平和賞の選考役にふさわしいと考えたノーベルの意思が反映されている。
2024年10月23日水曜日
長崎に落ちたラジオゾンデ(4)
原爆は広島と長崎だけに落とされたと思っていたが、そのリハーサルが行われていた。
上空9000Mから落下させるため、目標地に正確に落とすためには、訓練が必要であった。
米国で原爆実験が成功した7月16日の直後に、長崎に落とす原爆と同じ形状で同じ重量のNTN爆弾をつくり、7月20日から8月14日まで、30都市に49発も投下訓練をおこなっている。そのため、死者400人、負傷者1200人位の犠牲者がでている。
日本側は、この少数のB29による新種爆弾の攻撃は、多数のB29による焼夷弾都市攻撃にくらべて損害軽微とみて、全く応戦しなかった。
爆弾投下の精度は、当初は目標より2Kmくらい外れていたようで、宮城をねらったのが東京駅の八重洲口の東の八重洲橋付近に落ちた。
宮城の東側に落下したパンプキン爆弾 |
49回の練習で精度を向上したようだ。
ただ最後の8月14日の投下は、広島、長崎の後であり、降伏発表前に第3の原爆が用意されていたからである。
しかし15日に日本が無条件降伏をしたので、投下されずにすんだ。
長崎に落ちたラジオゾンデ(3)
長崎に落ちた原爆を運んだB29は、サイパン島から飛んできたと思っていた。
しかし原爆用にB29は、サイパンの近くの、テニアン島は基地であった。
広島の原爆も、長崎の原爆の、おなじテニアン基地から運ばれていた。
両方とも同じ時間帯に基地を出発し、広島と小倉に向けて飛行したと思われていた。
しかしながら、小倉の時は日本の硫黄島あたりに台風の目があり、3機がこの上空で落ち合うことが危険なため、屋久島の上空で落ち合うことになった。
飛距離が長いため、最初の気象観測機の姿を後続の2機は見失って、電波通信だけで小倉の気象状況を判断し、小倉に原爆を落とせると判断して小倉にむかった。
しかし小倉は前日の八幡空爆の消煙などが小倉に流れてきて、通常の雲以上に視界が悪くなっていた。40分くらい目標の小倉工兵廠をさがしたがみつからず、高射砲や戦闘機の攻撃も始まったので、あきらめて長崎の目標に変更した。
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北九州地区高射砲10門で応戦 |
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ゼロ戦10機で応戦 |
長崎への原爆投下後は、燃料不足のため、沖縄基地に着陸し、燃料補給をした。1泊をすすめられたが、しばらく休憩してその日の深夜にテニアン島に帰還した。
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長崎被爆あと |
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長崎被爆前 |
長崎に落ちたラジオゾンデ(2)
長崎に落ちたラジオゾンデの一個が、九帝大に持ち込まれて、その調査をするグループに偶然にも私は入った。野田助教授がリーダーで、実施現場の指揮は入江富士夫講師であった。
当時出校していた学生数名が集められたのである。
当時大学には、関門海峡や博多湾出入り口に投下された感磁気式魚雷が持ち込まれ、調査された残骸が存在していた。
ゾンデは原爆の爆発圧力や温度や電磁波などの性能を計測するために、原爆と同時に落下傘つきで投下された計測装置であった。
ゾンデは不発弾ではなく、計測器具であることは解っていた。分解して電源部を引き出すと、石綿で包まれた中から、乾電池やコンデンサーなど出てきた。
配線のビニール電線は、当時日本には無く、細い配線に驚いた。
受信部分の機器の内容はすぐには不明であったが、トランジスタはまだない時代で、小型の真空管が沢山並んでいたのに驚いた。当時はラジオ用のでっかい真空管じか知らなかったからだ。
わたしが直接計測したのは乾電池の電圧だ。電池は3V~6V程度と思ってメータをつないだら、針がふりきれた。あわててスケールを切り替えると110Vであった。当時日本にない積層乾電池であった。コンデンサーも小型の電解コンデンサーで、日本ではまだなかった。
長崎に落ちたラジオゾンデ(1)
長崎に落下したラジオゾンデを学生時代に調査したことがあり、12月にその講話をすることになり、ゾンデの中に入れられていた手紙の宛名が嵯峨根遼吉東大教授であったので、彼の経歴をしらべてみた。
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嵯峨根遼吉 |
手紙の原文 |
手紙の和訳文 |
「一緒に原子核分裂の研究の研究をしていたので、あなたはその威力を承知しているでしょう。我々はその爆弾の製造に成功したのだから、早く日本政府に降伏するよう連絡しなさい」という趣旨の手紙でした。
嵯峨根教授も戦時中は、理化学研究所で原爆の基礎研究をされていた。
嵯峨根姓は養子に出された家の姓で、生まれは有名な長岡半太郎の五男であった。父も東大教授で、有名な金属学者であつた。
長岡半太郎 |
長岡半太郎は、大村藩の三七志士の一人、長岡治三郎の子供であり、嵯峨根教授の故郷は長崎県大村市であった。
大村藩玖島城 |
三十七志の墓 |
当時嵯峨根教授が、ラジオゾンデが落ちた長崎に急遽訪問されたのは、当然の行動であった。
西方浄土筑紫嶋: 大村藩の維新三十七士碑(円融寺跡の庭園)と
終戦後は、原子爆弾の著書を出されたり、米国にわたって原子力発電の実態研究をされたりした。
50歳で東大を辞職され、日本への原子力発電技術の導入の仕事をつとめられた。
私が勤めていた安川電機の会長であった安川第五郎氏が民間側の代表で、学会側の代表を嵯峨根遼吉氏が勤められた。
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安川第五郎 |
二人の組み合わせは次のとおり。
1956年 日本原子力研究所の理事長と副理事長。
1957年 日本原子力発電の社長と副社長。
私も安川会長の勧めで、この二つの設備を見学したことがあるが、嵯峨根氏のことは当時は知らなかった。
副理事時代に、嵯峨根氏は中曽根大臣に原子力発電の法制化を進言したりされた。
75歳で病死されたのは残念である。
生前にお会いする機会があったら、ラジオゾンデの話を懐かしく話したであろう。