長崎に落下したラジオゾンデを調査したことがあり、12月にその講話をすることになり、ゾンデの中に入れられていた手紙の宛名が嵯峨根遼吉東大教授であったので、彼の経歴をしらべてみた。
嵯峨根遼吉 |
手紙の原文 |
手紙の和訳文 |
「一緒に原子核分裂の研究の研究をしていたので、あなたはその威力を承知しているでしょう。我々はその爆弾の製造に成功したのだから、早く日本政府に降伏するよう連絡しなさい」という趣旨の手紙でした。
嵯峨根姓は養子に出された家の姓で、生まれは有名な長岡半太郎の五男であった。父も東大の有名な金属学者であつた。
長岡半太郎 |
長岡半太郎は、大村藩の三七志士の一人、長岡治三郎の子供であり、嵯峨根教授の故郷は大村市であった。
大村藩玖島城 |
三十七志の墓 |
当時嵯峨根教授が、ラジオゾンデが落ちた長崎に急遽訪問されたのは、当然の行動であった。
西方浄土筑紫嶋: 大村藩の維新三十七士碑(円融寺跡の庭園)と
終戦後は、原子爆弾の著書を出されたり、米国にわたって原子力発電の実態研究をされたりした。
50歳で東大を辞職され、日本への原子力発電技術の導入の仕事をつとめられた。
私が勤めていた安川電機の会長であった安川第五郎氏が民間側の代表で、学会側の代表を嵯峨根遼吉氏が勤められた。
安川第五郎 |
二人の組み合わせは次のとおり。
1956年 日本原子力研究所の理事長と副理事長。
1957年 日本原子力発電の社長と副社長。
私も安川会長の勧めで、この二つの設備を見学したことがあるが、嵯峨根氏のことは当時は知らなかった。
副理事時代に、嵯峨根氏は中曽根大臣に原子力発電の法制化を進言したりされた。
75歳で病死されたのは残念である。
生前にお会いする機会があったら、ラジオゾンデの話を懐かしくしたであろう。
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