2011年10月10日月曜日

戦国筑紫の女将たち(3)  松東院メンシア

平戸に昔の海外貿易遺跡の商館が復旧され、新たな観光拠点ができた。
この平戸領主松浦久信の夫人となった松東院メンシア(実名不詳)は、松浦氏と大村氏の貿易戦争の和睦のあかしのため、大村氏から嫁いできた。
大村純忠はキリシタン大名で、全領民を改宗させ、80以上の教会を建立したほど熱烈な信者であった。一方では南蛮貿易で財力を蓄えていた。
当時隣国龍造寺らが貿易独占をはかって長崎港などを要求されることを恐れて、長崎や茂木の地をイエズス会に寄進していた程である。
松浦氏との貿易争いも続いており、早岐、針尾、佐世保などを侵略されていた。
父大村純忠がその五女メンシアと松浦久信との婚約をしたのは、これ等の土地を化粧料として割譲する条件での和睦だったが、メンシアがまだ3歳のときだった。
松浦鎮信の方はこの結婚によって宣教師たちの信頼をえて、貿易を拡大しようと考えていた。
それから10年後、秀吉の九州征伐が始まる頃は、純忠は病床に伏せていたが、大村と松浦が共に秀吉の島津攻めに参加することを誓うため、かねてからの婚約を実施した。
ただし、すでにキリスト教に入信していたメンシアの信仰を守らせることを条件に、松浦鎮信の嫡男松浦久信の嫁となった。時に久信16歳、メンシア13歳であった。婚儀のときには父純忠はすでに帰らぬ人となっていた。

秀吉は九州平定のあと、キリシタン禁令を発したのは有名な歴史である。
結婚の条件にメンシアの信仰を許していた松浦家であったが、生活習慣の差からその信仰に反感をもっていた。
そこに秀吉の禁令がだされたので、さっそくメンシアに強く棄教をせまった。しかし
棄教よりは離縁をえらぶというメンシアの意志の強さにおされ、一族の一部にも理解者がいて、離縁は留められた。
やがて長男を出産し、義祖父と同じ名前の隆信(宗陽)と命名して、一家はしばらくは平穏に過ごしていた。
やがて朝鮮出兵がはじまり、鎮信と久信は小西行長の指揮下で出陣した。その頃
長男の重病があったり、次男信清の誕生があったりして、秀吉の死亡の翌年に義祖父も亡くなった。
朝鮮からの帰国後も義父鎮信は領内のキリシタン禁止を進めてたが、メンシアに対しては、長男の宗陽のこともあるので、強制しないまますごした。
関ヶ原の戦で西軍が敗れ、キリシタン大名の有力な味方だった小西行長が消えた。その2年後メンシア夫人の理解者だった夫久信が37歳で急死した。
平戸では藩主に義父が返り咲き、キリシタンの弾圧を強化していたが、やがて65歳で世をさり、メンシアの長男宗陽がやっと藩主となることができた。
しかし江戸幕府のキリシタン前面禁止時代となり、全国的に多くの殉教者がでた。松浦藩では洗礼を受けなかった次男の信清が表面にたって、キリシタン弾圧の役目をはたし、生月島などで多くの殉教者の血がながされた。
メンシアの実兄の大村喜前も信仰と棄教の狭間に悩みながら死んでいった。
このような世の中で、メンシアの信仰は密に継続されていたようで、「平戸の藩主とその母がイエズス会パピストであり、その兄弟姉妹もキリシタンである」ということが、英国商館長の日記に記録されているようだ。
遂に66歳のときにメンシアは江戸幕府から呼び出され、松浦家の江戸菩提寺の孝徳寺に隠居するように命じられる。ここには次男信清がすでに葬られており、その7年後には長男の宗陽も葬られることになる。
宗陽の死後、松浦藩を追い出された浪人が、前藩主の母がキリスト教徒だと評定所に訴えた事件があったが、幕府は取り上げなかったという。
このような計らいを幕府が行った裏には、生前の宗陽が、毎年商館長に指示して莫大な贈り物を将軍や幕閣に届けさせていたからであろうと言われている。
メンシアは信仰を守りつづけながら、また子供たちをともらいながら、85歳まで存命であった。まさにキリシタン禁令の時代に強い信仰の一生であった。

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