磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。
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