2011年11月14日月曜日

日本とポルトガル


日本は東の果て、ポルトガルは西の果てに位置するが、歴史的関係は16世紀から始まっている。

当時のポルトガルの世界地図には、日本の本土と四国はJAPAOと書かれていて、九州はBVNGO(豊後)と記載されていた。

昨日はそのポルトガル関連のテレビが多かった。

1)常盤貴子のレポートで、リスボンと三島由紀夫、ナザレーと壇一雄の関係跡を旅して、ポルトのワイン、そしてザビエルの記念館や天正遣欧少年使の記念資料などなどが紹介された。

ナザレー付近には行ったこともあるが、壇一雄の文学碑が現地にできていることをはじめて知った。

2)放送大学では、天正遣欧少年使4人の詳細な歴史資料が説明された。

伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4人は、14歳で信長に選ばれて派遣され、リスボン経由で、ローマ入りし、ベニス経由でまたリスボンにもどり、25歳で帰国したときは秀吉の時代になっていた。

4人が秀吉の家臣への誘いを辞退し皆宣教師となるが、その後キリシタン禁止の時代となる。

千々石のみ棄教するが、その後の経過は不明、あと3人は宣教師として苦難の人生をおくる。

伊東は大友宗麟の血縁で、日向国主伊東義祐の孫で司祭に叙階されるが45歳の若さで長崎で病死する。

原は追放先のマカオで61歳で死亡、中浦は国内での布教を行っていたため小倉で捉えられ、65歳で長崎でさか吊りの刑により殉教した。

これらの歴史は国内では全く記録されていなかったが、ポルトガルやキリスト教会側の記録を、明治維新後の岩倉訪欧使節団が知ってやっと日本史に記載されるようになった。

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