2013年3月18日月曜日

箱崎と広田弘毅の縁

箱崎の一光寺にあるわが家の祖先の墓石を制作したのは、広田弘毅の弟の広田徳右エ門であり、その名前が刻まれている。

弘毅の父徳平は箱崎の生まれで藤野姓であったが、広田石材店の徒弟として働くうちに見込まれてその養子となり石材屋となった。

箱崎の生家の藤野家は、わが家と同じ一光寺の檀家であるから、明治時代には一光寺の墓石の制作をてがけていたようだ。弘毅は東大卒業後外交官となり、石工店は弟の徳右ェ門がついだ。

弘毅の伝記をよむと、50歳くらいまでは外務省の主流派は幣原、吉田などのグループで、広田は主流からはずれた道を歩んでいた。

奥さんは東京での下宿先の娘さんだったと聞いていたが、よく調べると福岡の玄洋社の世話で東大に進学しており、玄洋社の幹部の月成功太郎
の次女静子さんが、東京の玄洋社育英会館(浩浩居)の世話をするために上京していたそうだ。
二人は福岡時代からの顔見知りで、玄洋社がとりもつ縁談だったようだ。別に三菱財閥の令嬢との縁談もあったようだが、あっさり断っていたようだ。

月成功太郎は来島恒喜と大隈外相を襲撃計画をたてていたが、単騎襲撃に及んだので、心中穏やかならぬものがあった。警察は関係者の一斉捕縛に踏み切った。このとき、福岡では平岡浩太郎、進藤喜平太をはじめ、的野半介、岡喬、林斧助らの玄洋社社員とともに、杉山茂丸も拘引された。頭山満は大阪で拘引され、東京では月成功太郎、月成勲、月成光、浦上正孝らが捕縛された。

 月成功太郎らは、獄に繋がれること半年に及んだが、遂に警察は来島以外の連累者を見出すことができず、拘引された容疑者はすべて放免された。

弘毅は長男で苦学タイプのまじめ人間であり、外務省同期の吉田茂は四男で吉田家に養子にだされた腕白息子で、牧野伸顕の娘と結婚しているから、性格的には全く異なるタイプである。

日米関係の悪化によって政治的立場が逆転して、吉田より先に広田が外務大臣、首相となったが、結果的には悲劇のA級戦犯となったのは、残念なことである。




広田弘毅の書。政治の世界は「誠」だけでは通じなかった。
所謂「東京裁判」の被告として広田弘毅が起訴されるに至り、妻の静子は昭和二十一年五月十八日払暁、服毒自殺を遂げた。











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