2013年3月27日水曜日

龍造寺隆信の首

島津義久・義弘らが龍造寺隆信の首実検後これを佐嘉に送り届けるが、その子龍造寺政家達が首の受け取りを拒否した日が天正十二年(1584)三月二十七日。
 天正十二年三月二十四日、肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信は、沖田畷の合戦で有馬・島津連合軍に敗れて討死しました。
 その直後のこと、隆信の子・政家の使者として大熊安芸守、守葉次郎右衛門が八代の陣中にいる島津家久を訪ね、隆信の首に拝謁したい旨を申し出ました。家久がこれを許すと次郎右衛門は隆信の首に向かって恭しく拝礼した後、憤然と語りかけます。
 「さてさて、不甲斐なき有様かな。鍋島殿の諫めを聞かずこのようになり果てたること、今更悔やんでも仕方がありません。この上は鍋島殿をはじめ政家公の御供をして薩摩に攻め入り、潔く弔い合戦を致す所存であります。薩摩の者共は老若男女を問わず撫で切りにして首をはね、黄泉の鬱憤をお晴らしいたしましょう」
 この後二十七日、島津家から河上助七郎という者が龍造寺家への使者として隆信の首を持参、筑後榎津というところまで船で来てその旨を龍造寺家へ連絡しました。すると鍋島直茂は「これは我が国の国情の強弱を偵察しに来たに違いない」と察し、大隈安芸守にこう言わせました。
 「隆信の首を送っていただいたお気持ちは非常に有り難く存じますが、このような不運の首を此方が貰い受けても仕方がないので、どこへでも捨て置き下され」
 策は鍋島直茂から出ているものの、これは龍造寺家が公式に首の受け取りを拒否したことになります。助七郎はそう言われてはどうしようもなく、首を持ち帰って高瀬の願行寺というところに葬ったのち帰国しました。
 沖田畷の合戦では龍造寺家の主立った者が悉く戦死しており、正に御家滅亡の危機にさらされていました。
 しかし鍋島直茂がこのような強気の態度で出たことにより、島津軍が佐嘉に攻め込むことはなかったと伝えられています。そして龍造寺家もやがて鍋島家に政権を移すことになります。

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