2013年3月20日水曜日

黒田如水の命日:3月20日(改訂)


黒田如水

慶長九年(1604)三月二十日、黒田官兵衛孝高(如水)が山城伏見で没す。(没地は筑前博多という説もある)
享年59歳。
 
卓越した軍略で竹中半兵衛重治とともに秀吉を助け、後に豊前中津城(大分県中津市)主となる。大河ドラマの主人公にもなった。
黒田官兵衛は、天文十五年十一月二十九日、播州御着城(兵庫県姫路市:当時は福岡村)の城主小寺政職の家老・黒田職隆の嫡子として姫路に生まれた。
父職隆は滋賀県の黒田村の出身で黒田姓でしたが、敗戦で播磨の福岡村にのがれて、小寺氏に仕えて家老まで昇進した。
官兵衛も小寺氏に仕えて、いち早く毛利から織田信長につくように進言し、その後は秀吉の軍師となった。
 豊前中津から筑前に移封になったとき、城の名前を福岡城としたのは、故郷の地名をえらんだものだ。

令和5年3月20日に、旧筑前黒田藩歴代藩主の功績を顕彰するための団体「藤香会」による黒田官兵衛公の420回忌が黒田家の菩提寺の崇福寺で行われた。東京から黒田長高氏を招いての会であった

1600年に藩主長政公が名島城に入り、その後福岡城を築き、官兵衛公の屋敷も城内にあって、59歳で亡くなった。
解体された名島城の城門も崇福寺に鎮座している。
崇福寺
  • 山門
    県指定有形文化財。かつて福岡城の本丸表御門であったものを、1918年大正7年)に陸軍により払い下げられ、崇福寺境内に移築された。二層造で本瓦葺の切妻造

黒田家の墓(崇福寺)黒田家歴代墓所
黒田孝高(如水)や正室の櫛橋光(照福院)、長政、弟の黒田熊之助をはじめ、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆、10代藩主・斉清の墓碑がある。藤水門で仕切られた一郭が黒田家の墓所となっている。


右奥が名島門
  • 唐門
    県指定有形文化財。名島城遺構を移築したもの。



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