2016年6月27日月曜日

朝鮮総督府庁舎の一生

旧朝鮮総督府庁舎(中央博物館)

景福宮模型

旧朝鮮総督府庁舎は景福宮の宮殿正面に1926年(大正15年)につくられました。

ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させました。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っていました。
中央ドームのステンドグラス


 朝鮮総督府庁舎の建築場所は、宮殿正門の光化門の近くのため、光化門を移築して保存し、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物は保存されることとなったが朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却しました。(一説に8割以上とも)
前にあった光化門を移築


しかし、宮殿の前面に朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後ここが朝鮮における行政の中核地となると、街から宮殿はみえなくなり、朝鮮民族にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになりました。これも現在まで続く反日感情の一因であるとみられています。
 1948年8月、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は、政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれました。大韓民国の成立宣言も、ここでおこなわれました。
 その後、韓国内では、旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり、議論がおこなわれましたが、一時期は韓国の国立中央博物館として利用されることになりました。

 わたしも中央博物館時代に、2回ほど見学したことがあります。

しかし、国民にとっては、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃しました。
 最終的には、かつての王宮をふさぐかたちで建てられていることから、撤去が決まりました。
王宮を塞ぐ博物館

 1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体され、現在、尖塔部分のみ残されて天安市郊外の「独立記念館」に展示されています。ソウルから南へバスやタクシーを使って2時間以上かかる場所です。下の写真がそれで、この展示の仕方には、崩壊・犠牲・鎮魂・再生などのさまざまで深い意義が込められているように感じられます。

尖塔部の展示

 庁舎の跡地には庁舎建設によって取り壊された王宮の一部が復跡元され、現在は同宮の正面入口となっています。
正面入り口

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