2016年6月19日日曜日

横須賀のドライドックと小栗上野介

「ブラタモリ」で、横須賀米軍基地見学の番組をみた。

この見学のクライマックスとでもいうべきは、ドライドック。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕等のため、フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設である。

驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことだ。
大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったが、施設の建造を新政府は受け継ぎ、日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めた。

そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所や造船所を作ることを計画した小栗上野介忠順(オグリン)である。
小栗は三河時代から徳川家の2500石の旗本の家柄で、いろんな奉行職を歴任し、安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として渡米し、勝海舟が先にに帰国したとき、ワシントンまでいって大統領に謁見し、米国の最新技術を学んで帰国している。
当時幕府は、外国から購入した44隻の故障の多い船に要する修理に頭を悩ませていた。
当時軍艦奉行の小栗は、国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説いたが、幕府は当初財政難を理由に決定を渋った。勝海舟も時期尚早と反対していた。
小栗はそれを押し切る形で了承を取り付け、フランス技術陣の指導により、地震対策を考慮して山を削ってドライドックを建造した。

江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗だが、その後、彼は江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、維新政府によって斬首されてしまった。
 つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、反逆者として死んだことになるが、彼が中心となった製鉄業、造船業の勃興は、他でもないその明治新政府がその遺志を受け継ぎ、日本をその後、重工業国と成っていった。



新政府のなかでも、大隈重信は小栗を高く評価し、その遺族を擁護した。

東郷元帥も日本海海戦の勝利は小栗のおかげとまで評価していた。
なんともこれは、歴史の皮肉という他はない。

小栗の顕彰碑には、「偉人小栗上野介、罪なくして此処に斬らる」
と刻まれている。
その子孫ではないが、小栗姓の俳優、小栗の親と娘がTVで有名になっている。


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