2016年6月6日月曜日

邪馬台国論(年代測定の問題点)

奈良県橿原考古学研究所元職員の関川尚功氏の「考古学からみて邪馬台国大和説は成り立つか?」
関川氏は考古学界の大和説に対し、考古学者の立場から公然と反対の持論を展開した方である。
邪馬台国九州説の私としては、ありがたい味方である。




その根拠は、古墳や建物の年代判定を、土器の編年と、材木の 年輪年代や炭素14年代で行うときの差異であるとする。

現在の考古学者は、ホケノ山古墳は250年頃と言っているが、関川さんはホケノ山 古墳は300年以後であると述べており、年代が大幅にくい違っている。

土器の編年の流れを整理すると、1980年代の前と後で、多くの考古学者が土器の年代を古いほうにずらしてきている。

たとえば、佐原眞氏の1968年のデータでは、庄内式は300年ごろで、布留式はそこから数十年後と見積もっている。

石野博信の1973年のデータでは、纒向2式の庄内1式が300年よりややあと、纒向4式の布留1式は、3百数十年と見積もっている。

しかし、1980年代の半ば以降を見てみると、多くの学者が庄内式を
200年代前半にまで古くしている。

そして、寺沢薫氏の2000年の論文では、庄内式が200年、布留式が2百年代末になっている。

また、柳田康雄氏の2004年の論文でも、庄内式が200年、布留式が240年ごろに持ち上がっている。

このような傾向に対して、森浩一氏は1994年の時点で「最近は年代が、特に近畿の学者たちの年代が古いほうへ向かって一人歩きしている傾向がある。」と述べている。
森氏がこのようにのべた意味は、どうもこれはおかしいのではと、暗に言っているのである。

このように年代が古くなっていく現象は、多くの考古学者が、年輪年代や炭素14年代で得られた古い年代を、深く吟味せずにすぐに取り入れたことによると思われる。


年輪年代法は木の伐採時期が分かるのであって、古墳や建物の築造時期を表すものではない。

 木は、水分や油分を抜くために長期間寝かせたり、数百年後に再利用されたりするので、伐採してから大分年数を経てから利用することが多いからである。

だから最近の、「邪馬台国近畿説」はおかしいということになる。

参照  http://www.bell.jp/pancho/k_diary-15/2015_01_18.htm
    http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku280.htm

邪馬台国は「魏志倭人伝」の解読によって論じられるべきで、そのなかの金印が出土すれば、決定的な証となるけれども、それ以外のあいまいな出土品で論じるのは、論外である。
魏志倭人伝の記載内容も、前半に書かれている地名や方位、距離、旅程時間などは曖昧なところが多く、いろんな解釈がされるため、九州説と近畿説が生じた。
後半に書かれている女王国より以北については、あまり論じられないのが近畿説の弱点で、説明がつきにくい。
伊都国には、官と副官がいたのに、特に一大卒を置いて、魏の使者の身辺警護をし、魏の使者は伊都国までしか訪問せず、ここで金印や国書の授受を行った。
卑弥呼は鬼道のシャーマンであり、中国を最恵国として地方豪族をまとめただけだから、倭国全体のリーダーではない。
邪馬台国の海の向こうにも倭国があると記載されている。
江戸時代の学者も、邪馬台国を大和朝廷と結びつける近畿説は、大和朝廷のルーツが中国の属国であったとすることになり、問題とした。

卑弥呼をロマンチックな古代女王とする近畿説がのさばるのは問題だ。


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