2021年10月3日日曜日

國生み神話の「おのころ島」:ブラタモリの説と九州説(改訂版)

 日本で最古の歴史書『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」。

そこには、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神様が生まれたばかりの混沌とした大地を天沼矛で「塩コオロコオロ」とかき回すと、矛先から滴り落ちた塩の雫が固まって「おのころ島」ができたと記されています。

まぼろしのアハ島(淡路島)
イザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま);『日本書紀』磤馭慮島(おのころじま)。
それはどこにあるのでしょうか?

答えは仁徳天皇がお示しくださっています。
397年『三国史記』の百済本紀、「夏五月 阿莘王、倭国と好を結び、太子腆支を以って質となす。
400年『好太王碑』高句麗 新羅に5万の大軍を派遣 倭軍を追って任那に迫ったが 倭軍傘下の安羅軍に隙を突かれ、新羅の王都を再占領されてしまった。
402年『三国史記』の新羅紀, 実聖王元年倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を倭に質となす。
二人の皇子を人質にとり朝鮮半島が一段落した(神功の三韓征伐)
403年ごろ仁徳天皇(67歳)は皇后の石之比賣(52歳)の嫉妬にあい故郷へ帰ってしまった妃の黒比賣(19歳)を追いかけます。
その際にお詠みになった歌がこの歌 

『淤志弖流夜(おしてるや)
那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)
伊傳多知弖(いでたちて)
和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)
阿波志摩(あはしま)
淤能碁呂志摩(おのごろしま)
阿遲摩佐能(あじまさの)
志麻母美由(しまもみゆ)
佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』

淡路島経由 船上で吉備の国をご覧になった情景ですが

アハ島が最初に出てきます この島が判明すれば

淤能碁呂島も解り あとは芋ずる式。


おのころ島で夫婦となった伊弉諾尊・伊弉冉尊は、日本列島の島を次々と生んでいきます。その中で最初に生まれた島が淡路島です。

ブラタモリがその「おのころ島」を訪問しました。



場所は淡路島の南にある沼島(ぬじま)。間に中央構造線があり、淡路島より2000万年も古い地質であります。




南岸の岸壁は片岩のきびしい岩肌がつずいています。



この岸壁のそばに上立神岩と下立神岩の夫婦岩が並んでいます。これが伊弉諾尊・伊弉冉尊の神話となりました。「おのころ島」の現在名は沼島です。


日本列島が、アジア大陸から分離して成立したという学説から考えると、九州北部に「おのころ島」があっても不思議ではありません。

博多湾入り口の小呂島が、おろころ島であるという説もありますが、今後警固断層などの地質学的な調査が必要でしょう。

博多湾の真ん中にぽっかり浮かぶ能古島の思索の森の入口に立つ、いざなぎ・いざなみの石像と、その場所から数百メートル南に進むとご覧の様な「いざなぎ、いざなみ石」と屋根付きの観覧する建物や説明板が有ります。
古事記や日本書紀にいざなぎ尊、いざなみ尊が淤能碁呂島に降りられて国生みや神生みをされた場所が能古島や小呂島と思われ、大変重要なモニュメントです。







壇一雄の石碑



1 件のコメント:

  1. ブラタモリは強引に日本の構造帯と国生み神話をくっつけていましたが、数千万年前から数百万年前の話です。一方、日本列島に人類が住み始めたのは数万年前、文明を築き始めたのはせいぜい1万年前ですから、同列に語れません。
    小呂島は2022年の論文で1000万年前に火山活動でできていることがわかっていますが、人類はまだ誕生していません。
    国生み神話はあくまで古代日本人が考え出したお話です。おそらく、人為的な何らかの事件を元に創られたものでしょう。ならば、それは恐らく、日本を制圧した人々の先祖譚=国生み神話であろうと思います。だから、玄界灘であり、オノゴロ島=小呂島+能古島なのです。北部九州は渡来人の玄関口だからです。

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