2011年8月17日水曜日

毛利輝元の再評価(改訂版)

 
西国の将『毛利輝元』は、関ヶ原の戦いで石田三成に担がれて西軍につき、敗れて中国8ヶ国123万石から、長門周防2ヶ国30万石に押し込められた大名です。
 世の評判は『二代目殿様、凡庸な将』と、かんばしくありません。しかし、関ヶ原を終えた後、一変します。その行動が脈々とつながれ、明治維新の原動力になったともいえます。
 毛利家は減封の上に分裂抗争の危機にも陥りました。そんな中で輝元は、『今こそ自分の命を懸ける時だ』と感じます。直ちに髪を落とし、名を『宗瑞(ソウズイ)』と改めます。家督は幼い息子秀就に譲り、自らは家政再建の先頭にたちます。
 毛利家の家臣はほとんどが長門周防の2カ国に移住しました。知行取りの武士が2,600人、足軽が3,000人、陪臣が19,000人、合計25,000人。それだけを1/5になった領地で養うとなれば、各人の知行俸禄も1/5にせざるを得ません。

 毛利家を去る者はほとんどいませんでした。一つには、家康が毛利家の自滅を図って、他家が毛利の家臣を採用しないようにし向けたこともその原因です。
 そうであれば、宗瑞(輝元)も意を決して事に当たらねばなりません。この年冬から、毛利家の二代目は新たな戦い『財政再建』が始まりました。
 宗瑞はまず、倹約をしました。衣食を減じ遊興を慎しみ、次ぎには増税を。五公五民の年貢を、六公四民、ところによっては七公三民まで引き上げました。

 検地も厳しく実施し、隠し田を探して年貢を取り、畑地にも課税する。当然、農民の反発は強く、一揆も生じました。
 何より力を入れたのは新田開発で、武士足軽にも新田開発を勧め、帰農を促しました。稲の育たぬ所には、和紙の原料となる楮コウゾをはじめ、桑、漆、茶、梅、菜などを植えさせて、売れるものは何でも作る『稼ぐ武士』への転換でした。
 この結果、3年後の慶長8年・1603年には、旧領地での年貢先取り分15万石を福島政則らに完済することが出来ました。無論そのためには大阪や堺の町人からの借財は増えましたが、累積債務を一気に計上したことになります。
 宗瑞は毛利家の本拠地の候補地を、山口、防府、萩の三つの候補地を挙げ、幕府に示しました。幕府、本田正信が示したのは、不便で建設費用もかかる萩で、『毛利家は外交でも商業でも発展する必要はない。堅守に徹して生きられよ』との示唆でした。その後250年間、幕末の動乱まで毛利家はそのように生き続けました。
 そして腹を括った宗瑞は開墾新田の免税期間を3年から5~6年に延ばし、畑作を奨励し、武士にも開墾に当たらせました。検地には正確を期し、目こぼしする奉行を厳しく罰しました。『一族親類も目こぼしなし、一揆の起こるのも覚悟の上、怨みはこの宗瑞のみに向けよ』と一生一度の覚悟を決めました。
 慶長12年から17年まで、
5年を費やして行われた再検地の結果、長州周防の2国の石高は54万石弱に達しました。

 この数字を聞いて幕府の実力者本田正信も驚き、中をとって37万石を表向きの石高としました。関ヶ原負け組の毛利を、戦勝の功労者黒田長政52万石や福島政則50万石弱より上にしたくなかったのです。正式には毛利藩の石高は『36万9,411石』、これが維新の大原動力になったのです。

 毛利輝元は世では『愚鈍な大名』として描かれることがしばしばです。が、本当は自らが率先垂範できりもししたかったのですが、出来ない事情がありました。

 祖父元就には、隆元、元春、隆景の3人の男子に恵まれましたが、世嗣であった長男の隆元が急死し、争いを避けるため早々に隆元の長男輝元を毛利家の総帥とすることを決めました。
 ただし条件があり、それは吉川家に養子で入った元春、小早川家に養子で入った隆景の意見を尊重し、何事も決すべき、との元就の遺訓です。
 歴史上有名な信長・秀吉と毛利家の争いの戦場、『姫路・高松』の戦でも、輝元の思いと元春、隆景の考え方には相当の開きがあり、大決戦にまで力が及ばず、講和に至っています。
 歴史に「もし」はありませんが、もし姫路・高松の戦いで毛利が勝っていたら、もし輝元の方針がそのままストレートに関ヶ原で出されていたら、家康も関ヶ原では勝てなかったかもしれません。


 しかしそうはならなかった史実は、250年後江戸幕府崩壊の先頭にたって、輝元の13代後の藩主毛利敬親のもとで、村田清風や周布政之助らの財政強化策が実現し、木戸孝允、高杉晋作らの志士の活躍で薩長同盟が結ばれ、明治の維新が断行されたのです。歴史の皮肉、輝元の願いがかなった瞬間でした。
 現在の大赤字国日本の財政再建の道は、この輝元のとった道に見えてきます。
(参考: 堺屋太一著 『三人の二代目(毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)』  2011.5講談社刊)

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