2011年8月26日金曜日

筑紫大宰(更新)

大宰府といえば菅原道真の天満宮のある場所と考えるのが現代人である。
ヤマト朝廷が成立したあと、西の都(遠の都)に設置された政府機関の歴史が次第にうすれているので、関係した人物をあげながら、まとめてみる。
新元号が「令和」となり、その出典が、大伴旅人らの万葉集となったことで、にわかに大宰府が脚光をあびているが、その時代は大宰府がスタートして120年後のことである。
◆ 小野妹子の時代よりはじまる。
607年に隋に派遣された小野妹子が、唐の使者裴世清を伴って筑紫に帰国した。
推古王朝は唐客の来日を機会に、筑紫大宰を筑紫に設置し、一行を大和飛鳥に送りとどける前の応対拠点での官職とした。この官名は筑紫卒、筑紫師、筑紫大宰など変化し、約一世紀間存在したが、氏名が明らかな人物は十名に満たないし、白村江以後に集中している。
◆蘇我日向
祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこの虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称しており、あとでも同じような事例が多い。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれ、九州最古の寺である。
◆斎明天皇の時代
660年百済救援のため斎明王朝の首脳は、飛鳥から筑紫に移動し博多湾に近い那津(岩瀬)の行宮から筑後川の中流の朝倉までを前線基地の範囲とした。
筑紫大宰はその中間地点の大宰府にいた可能性はある。当時の筑紫大宰師は安倍比羅夫という。
◆蘇我赤兄
669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。しかし中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説があり、真相は不明だ。この年に藤原鎌足が死亡して政局も変化し、短期間で都にもどり、左大臣に任命されている。
◆栗隈王
敏達天皇の孫といわれている。672年壬申の乱当時の筑紫太宰であった。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すとといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
「筑紫国は以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外の兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺しても何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。(現代文訳)」というのが書紀が載せた栗隈王の言葉である。乱のあと675年には兵政長官に任命された。
◆その後、屋垣王、丹比嶋、栗田真人、河内王、三野王、石上麻呂などの名前が700年までに見える。
◆大友旅人と山上憶良
727年に大宰帥として大宰府に赴任したようだ。この任官は長屋王排除に向けた藤原氏による左遷と見る説が多い。この一年前に山上憶良はすでに筑前守として赴任しており、歓迎の宴で歌を披露している。二人の和歌を通じての交流は有名である。
◆藤原広嗣
 740年藤原宇合の長子である広嗣は、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。
◆吉備真備
760年頃藤原仲麻呂は新羅征伐を計画した。当時仲麻呂に疎遠にされて大宰大弐を務めていたのが、唐仕込みの軍学者吉備真備である。仲麻呂の命で軍備をすすめるが、地元の負担や、防人の苦労などに配慮して、ゆっくり5年ほどかけて舟や兵士の増強をはかった。そのうち仲麻呂の政権運営がいきずまり、新羅征伐も中止となり、吉備は復権して京都へ帰ることができた。

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