2015年12月11日金曜日

鎌田詮一中将

日本占領の米軍先遣隊150人の隊長テンチ大佐と副隊長のダン大佐。

日本側が米軍受け入れのために急いで作った「連絡委員会」の副委員長である鎌田詮一中将。

鎌田詮一中将
これが旧知の間柄であったことは日本にとって幸運であった。

実は、鎌田中将は昭和のはじめ頃(少佐の時)日本から留学し、米軍に勤務させて貰っていた時がある。

当時日米関係はよかった。アメリカはすごい国で、他国の軍人を自分の国の最も優秀な工兵連隊の大隊長に任命し、テンチとダンは当時少尉で鎌田の部下であった。鎌田は京都大学でも学んだ優秀な技術将校であったからだ。

戦場に臨むような気持ちで乗り込んできたテンチ大佐は、鎌田中将を見たとたんに相好をくずし彼の無事を喜んだ。
事務的なことが済んで3人で地下壕の広場でウイスキーパーティーをして懐旧談をしていたところへ、政府の津島蔵相の秘書官橋本龍伍が青い顔をしてやってきて、用件をつたえた。

鎌田は橋本の依頼事項をきいて 「やってみよう‥‥」 といって、「軍票を使わないよう」にテンチ大佐に強く頼んだ。
テンチ大佐はグラスを置いて考え込みました。こんな重大なことは先遣隊長ぐらいでは決められない。

するとダン大佐がそばからテンチの肩を叩いて、「テンチ大佐‥ほかならぬゼネラル鎌田によい知恵を出してやり給え、日本を焼け野原にした罪ほろぼしにね‥‥」 といった。


そしてテンチ大佐はさっそくマニラの総司令部に無線で頼んでくれた。飛行機からアンテナを出せばマニラにまで通じる‥‥すごい通信能力であった。

今なら、マッカーサー元帥は先遣隊の無事を喜んでくれている、今だ‥‥というわけだ。

間もなくマッカーサーから返電が届いた。
「日本経済復興を考慮し速やかに善処するであろう。」 という返信であった。

その後総司令部と日本政府との間にいろいろな折衝があったが、とにかく軍票だけは使わないで済んだ。最初が大切で、一旦使い出したら、あとは大変なことになっていた筈だ。

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