2015年12月22日火曜日

早良 地名と人名

義弟が早良区に居をかまえたので、早良の名前をしらべてみた。

筑紫という国名が筑前、筑後に分かれたのは持統天皇の頃で、その時期に筑前には15の郡が倭名抄に記されている。

怡土・志摩郡(糸島郡):       早良郡:

那珂・席田・御笠郡(筑紫郡)    糟屋郡:   
宗像郡: 遠賀郡:  鞍手郡:  嘉麻・穂波郡(嘉穂郡)     夜須郡・下座郡・上座郡(朝倉郡):
( )内は合併後の名前で、15郡が、9郡となる。

現在の福岡市になるのが、早良郡、筑紫郡と糸島郡、糟屋郡の一部分で、中央、東、西、南、城南、博多、早良の7区になっているが、早良区の地名だけが古代の名前が残されている。
早良は麁原(そはら)、祖原とも表される。


早良郡志によると、昔武内宿禰がこの地にすみ、壱岐真眞根子の女、豊子姫をめとり、平群都久宿禰がうまれた。その子孫が河内国皇別早良臣となったので早良郡と名付けられたという説が記されている。
また、乾くことを、古語で「さわらぐ」というので、この地区が乾燥していたためという説もある。
さらに、韓国の首都「ソウル」の地名を渡来人が住み着いて名付けたという説もある。

倭名抄時代の早良郡には6郷が置かれていた。

比(樋井):    乃計(野芥):   奴加多(額田・野方):

佐波良(早良・祖原): 倍久利(平群・背振):  田部(小田部)

このなかには、額田や平群など近畿の大和朝廷の歴史にも出てくる名前がある。

それで桓武天皇の悲劇の弟、早良親王の名前を思い出した。
長岡京造営に際して、この事業を主導していた藤原種継暗殺事件がおきた。

藤原不比等の四人の子がそれぞれ、北家、南家、式家、京家に別れて、主導権争いを演じていた。

藤原種継は式家で、おそらく、他の三家の誰かが、仕掛けたのだろう。藤原種継を抹殺して、大伴氏と秦氏の「思い上がり」を懲らしめる目的であったという。
大伴氏と親しかった早良親王も一味と疑われた。皇太子を解かれ淡路島に配流された。親王は抗議の絶食をして死亡した。

(これは桓武天皇に、弟の早良よりも、息子の安殿に皇位を譲りたいという親心が芽生えた可能性がある。)

ここから先、長岡京に戦慄が走る。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことである。

桓武天皇の后きさき・旅子、早良親王の母・高野皇太后、安殿や賀美能親王の母で桓武天皇の皇后・乙牟漏がつぎつぎに亡くなっていった。

たまらず桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生を禁じた。

しかし、早良親王の祟りの恐ろしさは、納まらない。延暦九年の秋から冬にかけて、天然痘が流行したのである。

安殿親王の体調が思わしくなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。

あわてて安殿は伊勢神宮に参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号されたのである。

ただし筑前の早良には、この悲劇の痕跡は波及していないようだ。

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