2021年7月14日水曜日

博多山笠の歴史

 博多山笠の歴史をみると、明治31年に中止させられそうな危機があった。

当時、新任の県知事曾我部道夫が、山笠を中止するよう福岡市議会に申し渡した。
理由は、山笠がたびたび電線を切る事故が起こる、半裸の男が町を練り歩く、冷酒をガブガブ飲み非衛生的など。
この頃は官選の知事で、政府の威光をかりて、強気だった。
博多っ子は対抗策を求めて、玄洋社社長進藤喜平太(一馬の父)が、九州日報の主筆,古島一雄に助けを求めた。
継続の趣旨に賛同した古島は、翌日から山笠擁護キャンペーンをはじめた。
博多っ子も連日櫛田神社にあつまり、県庁まで廃止反対の陳情に押し掛けた。
この世論の勢いに負けて、当局も古島に仲裁方を申し入れてきたという。これで山笠中止はまぬがれ、行事の在り方が改善されたという。
写真の前列右端が古島一雄で頭山のとなりに座っている。
その後古島は政界で活躍し、戦後、幣原内閣が組閣された際、入閣を要請されたが固辞する。また、昭和21年(1946年)5月に日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、これも老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。
以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された。昭和27年(1952年)5月26日、死去。享年81。
写真の前列右端が古島一雄


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