2016年3月11日金曜日

いろは丸沈没事件と坂本竜馬

1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で、海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で衝突した。


明光丸は、イギリスで建造され長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であった。

いろは丸は大破し自力航行不能となって、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦へ明光丸により曳航される途中に、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没した。

搭乗していた坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸した。

龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。

長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩参政後藤象二郎)は紀伊藩勘定奉行茂田一次郎)と争った。
この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。航路の情況から、現代の専門家の分析では、いろは丸側に全責任があったとされている。


しかし土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630や金塊など4万7896両198を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。

紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。

さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。

事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。

なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。

しかしまだ船底の土の中部は調査はされていないので、可能性は残っている。

賠償金はその後紆余曲折があって、五代友厚らの仲介により7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された



いろは丸展示館は、鞆の浦のシンボル「常夜灯」のすぐ手前にある。

「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の蔵(国登録有形文化財)を利用したもので、慶応3年(1867年)に鞆の浦沖で沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などの関連資料を、沈没状況のジオラマとともに展示、紹介している。






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