明光丸は、イギリスで建造され長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であった。
龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。
長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)と争った。
長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)と争った。
紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。
さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。
事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。
なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。
しかしまだ船底の土の中部は調査はされていないので、可能性は残っている。
賠償金はその後紆余曲折があって、五代友厚らの仲介により7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。
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