真田昌幸と室賀正武は犬猿のなかであった。
室賀の居城は原畑城で政務を行い、一旦有事の際には笹洞城に立て籠もっていた。
天正11年(1583年)に室賀が徳川家康によって他の信濃豪族とともに所領の安堵状を受けた。
同年、真田昌幸が所領を拡大しようとした際、室賀氏は真っ先に標的になった。
だが真田氏の麾下に入った事は不本意で、天正12年(1584年)家臣の鳥井彦右衛門尉を家康の元へ使いに出すと、家康より昌幸を謀殺すべしとの指示を受けた。
だが孫右衛門は既に昌幸に内通しており、そのまま上田城に駆けこんで昌幸に事の次第を密告した。
孫右衛門がそのまま室賀家へ帰参したため、正武は経略が成功していると見誤り、桑名八之助、相沢五左衛門尉、堀田久兵衛らの家臣を引き連れて上田城へ参上した。
正武は書院に通されたが、次の間に控えていた真田家臣・長野舎人と木村渡右衛門に急襲され、その場で斬殺された。
正武が連れていた家臣たちも抵抗するが捕えられたが、のち真田氏に仕えた。
室賀正武の墓は前松寺にある。
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