2016年3月6日日曜日

真田昌幸と室賀正武

真田昌幸と室賀正武は犬猿のなかであった。
室賀の居城は原畑城で政務を行い、一旦有事の際には笹洞城に立て籠もっていた。

本能寺の変により武田遺領の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱が発生し、真田昌幸らが相模国の北条氏直に属すなか、正武は別行動を取っていた。
天正11年(1583年)に室賀が徳川家康によって他の信濃豪族とともに所領の安堵状を受けた。
同年、真田昌幸が所領を拡大しようとした際、室賀氏は真っ先に標的になった。
正武は守戦で自ら出撃して奮戦したが、間もなく真田氏と和睦した。

だが真田氏の麾下に入った事は不本意で、天正12年(1584年)家臣の鳥井彦右衛門尉を家康の元へ使いに出すと、家康より昌幸を謀殺すべしとの指示を受けた。
間もなく昌幸より居城・上田城に招かれたとき、正武は一門の室賀孫右衛門を徳川氏の家臣・鳥居元忠の元へと派遣して援軍を要請した。
だが孫右衛門は既に昌幸に内通しており、そのまま上田城に駆けこんで昌幸に事の次第を密告した。
孫右衛門がそのまま室賀家へ帰参したため、正武は経略が成功していると見誤り、桑名八之助、相沢五左衛門尉、堀田久兵衛らの家臣を引き連れて上田城へ参上した。
正武は書院に通されたが、次の間に控えていた真田家臣・長野舎人と木村渡右衛門に急襲され、その場で斬殺された。
正武が連れていた家臣たちも抵抗するが捕えられたが、のち真田氏に仕えた。
室賀正武の墓は前松寺にある。


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