2016年3月9日水曜日

水戸光圀と鎌倉と英勝院

水戸光圀は、江戸詰めが原則で、遠出する機会はすくなかったようだ。

昨日のテレビで、一番遠出したのは鎌倉だったということを知った。

鎌倉は源氏の根拠であり、鎌倉の英勝寺には水戸家と縁の深い尼寺があって、光圀の出生を誘ったお勝の方(英勝院)がいたという。

徳川家康側室で、大田道潅四代の太田康資息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。



家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。


創建にあたっては、徳川頼房の娘小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。

光圀の出生のときは、お勝の方(英勝院)の助言により無事に出産できたという伝説があるようだ。


それで徳川光圀もこの寺を訪問したとされている。


しかし同時に源氏のルーツである鎌倉の地形や史跡も詳細に調査して、大日本史や新編鎌倉誌などに記載している。
1週間で178ヶ所も調査
鎌倉の史跡地図
新編鎌倉誌
建長寺の説明と地図

英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を勤めたため「水戸御殿」とも呼ばれた。
しかし六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、その後は徳川家の支援によって維持されていたという。

英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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