今日のテレビで、父壇一雄の作品に描かれている場所を、娘の壇ふみさんが訪ねてまわる番組をみた。
ニューヨークにいた時、7階建てのホテルの窓から、太宰が呼んでいると飛び下りそうになったことが、「火宅の人」にかかれているし、同室していた友人も証言しているそうだ。若い頃の太宰と眼鏡の壇の写真もみられた。
ニューヨーク大学の近くのそのホテルにふみさんも宿泊して、その事件の時代を回想する場面は、魅せられた。
私もそのニューヨーク大学の近くは散策したことがあり、壇ふみさんは旧制福高の同窓会で一度拝顔したことがある。
壇一雄がポルトガルのナザレー海岸近くに3年ほど滞在して、「火宅の人」を執筆したことは有名で、そのナザレー海岸を訪ねたこともある。今は壇一雄の記念碑ができているそうだ。
壇は父の仕事の関係で、山梨県都留市で生まれ、栃木県足利市で育った。そのあいだに、母の家出を発端に両親の離婚で母と別れる。
中学卒業後、旧制福岡高校(現九州大学教養部)へ進むが、福岡では母が新しい生活を営んでいたのだった。 母との再会を果たし、親密な親子関係を回復した。
福岡で演劇活動に熱心に取り組むが、母の世話になることも多かった。 その頃「火宅の人」のヒロインになる女優とも出会っている。
壇は「石川五右衛門」「長恨歌」で直木賞を受賞しているが、その前に「リツ子・その愛」「リツ子・その死」により名声を得ていた。 最初の妻、律子との出会いから結核による死までを抒情物語に仕上げた。
律子の実家は中央区伊崎で、福岡女学院では、メイクイーンに選ばれた才媛であった。 亡くなったのは西区小田の浜の結核療養所で、能古島が一望できる場所であった。 今壇一雄の文学碑が建つのは、小田の浜が真正面に見える能古島の高台である。
私は同じ旧制福岡高校の卒業で、学生時代に「リツ子・その愛」の小説を読んだり、ラジオ放送で聞いたりしていたが、社会人になってから義父の縁で、大学での教え子とふみさんそっくりの従妹さんの仲人をつとめたことがある。
世界各地を放浪した壇一雄は、最後に福岡にもどってきた。そして能古島に終の棲家を構えた。
そして私の義父が九大病院に入院時に、たまたま隣の病室923号が壇一雄の末期の入院部屋で、ふみさんが出入りしてたという不思議な縁があった。
そんな縁で興味をもち、彼が終の棲家「月壷洞」を能古島に構えたので、その住宅跡や歌碑のスポットに、学生をつれて案内したりした。
文学碑 |
左下:妻ヨソ子 、 右上:壇ふみ |
火宅の人の最期の口述の言葉 |
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