本能寺での信長の死を好機に、足利義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。
親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。
同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正13年(1585年)7月、秀吉が関白太政大臣となる。
その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。
義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を薩摩に送って和議を勧めている。
天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている。
島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、天正16年(1588年)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山(道休)と号した。
また、朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。
秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。
文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。
足利義昭の陣屋が右側の蒲生氏郷の近くにある晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。
慶長2年(1597年)8月、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61(満59歳没)。
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