2020年12月18日金曜日

邪馬台国の大和説

 邪馬台国の大和説の中心によく比定されるのは、箸墓古墳と纒向遺跡である。

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある古墳で、形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、日本書紀に2回出てくる記事から、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。宮内庁管理で発掘調査はされていない。

纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。2000年までに100回ほど発掘調査がされたが、環濠などはなく、東西に長く傾斜があり、遺構や倉庫あとやまとまった居住地区も見当たらない。

ヒミコは女王であったが、百襲姫命は大物主神の妻であった。
ヒミコの女王國の南には、男王の支配する狗奴国があって対立していた。
大和説の人はこれを東側におきかえて、尾張説で説明している。
後漢書では、女王國より東、海をわたること千里余りに、拘奴国があり、女王に属さず、とある。

その他古代史文献学者平野邦雄先生が整理された基礎的基礎事項が多々あり、これを無視して邪馬台国大和説をとなえるのは難しくなっている。

最近では、関西地区の歴史・考古学者にも、邪馬台国大和説に疑問をもつ人が増えているいるようだ。




澤田 しょうこ、石田勝一、他8人

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