2020年12月28日月曜日

倭人伝の著者として有名な陳寿

 三国志、倭人伝の著者として有名な陳寿は、不運な歴史家であった。

安漢(四川省)の人。字 (あざな) は承祚。蜀 (しょく) に仕え、蜀の滅亡後は晋の張華に認められて著作郎となり、「三国志」を編集した。
蜀出身の人物にもかかわらず、三国志で魏を正統視したことから、蜀びいきの人から非難をうけた。
蜀が魏に滅ぼされたのは、彼が31歳の時で、蜀の後主劉禅に、魏に降伏を勧めたのが陳寿の師匠の譙周だった。降伏論者の弟子だったことが、陳寿の評判を悪くした原因となった。
また、父の喪に服していた時に病気に罹り、下女に薬を作らせていた。このことが発覚すると、親不孝者として糾弾された。これは儒教の礼教において、親の喪に服している時にわが身を労わるのは、もっての外とされていたからである。このため蜀漢滅亡後も、しばらく仕官できなかった。
ようやく、同門でかつての同僚羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。司馬炎(武帝)にその才能を買われて、益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華らに高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。
これらの実績を踏まえ『三国志』を編纂すると、張華は「『晋書』はこの本の後に続けるべきであろうな」と称賛した。
張華の政敵であった荀勗は、陳寿を歴史家としては評価していたが、『三国志』の「魏志」の部分に気分を害する箇所があった(荀勗は魏に仕えた荀攸・荀彧と同族)ため、陳寿を外地の長広郡太守に任命した。陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、経緯を知った杜預の推薦により、検察秘書官である治書侍御史に任命された。
母が洛陽で死去すると、その遺言に従いその地に葬った。ところが、郷里の墳墓に葬る習慣に反したため、再び親不孝者と非難され、罷免されてしまった。数年後、太子中庶子に任命されたが、拝命しないまま死去した。
かつての師であった譙周は、陳寿に「卿は必ずや学問の才能をもって名を揚げることであろう。きっと挫折の憂き目に遭うだろうが、それも不幸ではない。深く慎むがよい」といったが、その通りの結果になったと『晋書』は評している。



0 件のコメント:

コメントを投稿