2021年6月19日土曜日

大山、瓜生夫婦の比較

 大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日1860年3月16日)- 大正8年(1919年2月18日)は、日本華族教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人であり、元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護師教育・女子教育への支援を行った。

家庭生活

晩年の捨松

結婚後、捨松は大山との間に2男1女に恵まれた。先妻の残した3人の娘をふくめた6人の子供を育てる主婦としても捨松は多忙であった。さらに不動産による大山家の資産運用も行っており、巌は自分が知らない間に広大な邸宅を手に入れたと驚いたという。

巌は日清戦争後に元帥侯爵、日露戦争後には元老公爵となり、位人臣を極めた。それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しんだ。

長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だったが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にした。次男の近衛文麿の妹・武子をめとり、高の死後は大山家の後継者となった。

晩年と死

大正5年(1916年)には嫡孫が誕生したが、その直後より巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去した。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、大山家の資産運用などに専念した。大正8年(1919年)、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。病気療養を理由に津田は退任を決め、捨松は紆余曲折を経てその後任を指名したが、風邪気味の体を押して後任のもとに依頼にでたことがたたり、新塾長の就任を見届けた翌日、倒れてしまう。当時、世界各国で流行していたスペインかぜをわずらい、そのまま回復することなく、2月17日に58歳で没した


瓜生 繁子(うりゅう しげこ、文久2年3月20日1862年4月18日) - 昭和3年(1928年11月3日)は、日本教育者瓜生外吉男爵夫人。旧姓永井

益田孝の実妹。幕府軍医永井久太郎(玄栄)の養女。

文久2年3月20日(1862年4月18日)、佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれる。

明治4年(1871年)11月、新政府の第一回海外女子留学生として渡米、ヴァッサー大学音楽学校に入学。10年間をアメリカで過ごす。

留学中、繁子は、アナポリス海軍兵学校の留学生であった、スマートな海軍士官の瓜生外吉(うりゅうそときち)」と運命的な出会いをし、帰国後結婚した。
そして七人の子女を生み育てながら、国に恩を還すという使命感とキリスト教の信仰に支えられ、二十年もの歳月を、見事に家庭と職業(女子高等師範学校東京音楽学校教員など)とを両立させたのである。

日露戦争で功を立てた夫、瓜生外吉(海軍大将 ・男爵)の引退後は、雲行きの怪しくなった日米関係の改善に尽すべく、夫の良きパートナーとして再度の渡米をする。
しかし時代の潮流を押しとどめることはできず、この心労がやがて外吉を病の床につかせてしまう。
夫の看病に明け暮れた繁子は、自らも癌を患い、六十七歳で夫に先立った。
明治・大正という男性優位の時代、運命にあえて抗わず、しかも夫の出世を支え、子どもを育てあげ、自身の社会的地位も着実に築いた女性。

晩年の瓜生繁子

2人の比較:

1)留学で学んだ教育は、大山が教養部、瓜生は音楽部で、帰国後の職業としては瓜生が優利であった。

2)結婚相手は、大山は後妻で先妻の子が3人あり、薩摩と会津の対立もあったが、瓜生は留学先での出会いによる恋愛関係から帰国後の結婚で順調であった。

3)子供の数は大山が3人うみ、瓜生は7人うんでいる。大山の長男は、海軍軍人で、軍艦爆発事故死している。瓜生の子の一人も同じ事故でなくなり、不思議な縁である。

4)大山は総理にはならなかったが、軍人では元帥、爵位は公爵と最高位の出世で、国葬をうけている。瓜生は海軍大将で、爵位は男爵。日米友好につとめたくらいの政治か致道であった。

5)寿命は、大山捨松は、巌の死後3年で、スペイン風邪にかかり、58歳で死亡。瓜生繁子は外吉の看病につとめ過労のため67歳で夫にさきだって死亡。


大山捨松のほうは、波乱の多い派手な人生であったが、瓜生繁子のほうは、ほぼ平和な人生であったようだ。


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