2021年6月26日土曜日

賀来惟熊

 俳優の賀来千香子さんのファミリー・ヒストリに登場した二人の人物。


賀来惟熊氏
  今でいえば、公益事業家、砲術家というべきであろうか。
  1796年、宇佐郡佐田村(さだむら)  現在の宇佐市 安心院町 左田で生まれる。
    ※当時は、島原藩の飛び地領であった
  農業や ろう絞り、酒造を行い 所有する山林の、植林事業などに従事。
  植林事業の重要性を説き、井堰(いせき)の復旧、貯水池の築造や宇佐神宮の改築にも尽力を尽くす。
  この人の偉大な所は、江戸時代に 民間で唯一の反射炉を作り 鉄鋳造にて大砲を作ってしまった事。
  日出(ひじ)藩に 帆足万里(ほあしばんり)という蘭学先生のもとで西洋学問を学んだ事が
  賀来惟熊氏が 偉大な事業を成し遂げ、成功させられた一因であったと思われる。
  思うに、知識を得るだけでなく 常に研究熱心であったに違いない。合わせて財力もあったのだろう。
  1853年(嘉永6年)に、反射炉の建設に着手  (歴史上有名な ペリー来航の年)
  その2年後の1855年(安政2年)に 左田村の"宮の台"に 鉄鋳造の反射炉を築き、鋳造を始める。
      (江戸では、安政の大地震があった年)
  そのわずか、3年後には、大砲の鋳造に成功させているとの事。
  初めは、6ポンド砲 4門、 12ポンド砲 2門、 18ポンド砲 2門の合わせて 8門を造るのに 2年を要す。
  最終的には、100門を超す数を造ったとも言われている。
  反射炉は どこに建設されたのだろうか?
  残念ながら、現在は 当時の反射炉は跡形も無く 姿を消している。
  佐田神社の どこかに造られていたと思われる・・・・との記述があるのみである。
「唯一の痕跡、反射炉の使用レンガが現存 佐田神社」
  唯一、反射炉を築いていたレンガの一部が 神殿裏の土塀に 積み上げられている。


  レンガ表面を見ると、今でも艶のある状態であり、高熱によって レンガ表面が溶損したような
  独特な感じが見受けられ 明らかに普通のレンガ表面と違う。
賀来飛霞氏(かく ひか)
  江戸時代後期~明治時代前期の植物学者であり、医者でもあった。   
  国東郡高田  現在の昭和の町で有名な豊後高田市生ま
     ※当時は、島原藩の飛び地領であった
  その後、現在の杵築市に移り住み、同じく 帆足万里(ほあしばんり)より 本草学などの学問を学び、
  本草学については江戸まで出向き 学んでいる。
  医学は、シーボルトより学んだとされる。
  1844年(弘化元年)には、左田村で医者として生活。
  1876年(明治9年)には、小倉県 第八大区医務取締役となり、宇佐郡立 四日市病院長兼医学校長となる。
  1878年(明治11年)には、東京大学小石川植物園の取調掛となり、植物の調査に専念。
  日光や東北方面まで 調査に足を延ばしているとの記述もある。
  退職後、晩年は 佐田で過ごす。 近代植物学の基礎を築いた人物とされる。
  『高千穂採薬記』 『杵築採薬記』 など、著書を数多く残している。
  二人共、私の調査範囲では 不明点も多いが、早くから西洋の学問を学び、
  行動範囲を見ると 当時としては移動手段もない時代 苦労しながら自分の足で歩き
  各自の学問を高めていった 偉大な人物であるといっても、過言でないだろう。

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