2021年6月4日金曜日

鹿部山の歴史(皇石神社・浦口神社・鹿部山経筒):由緒石碑文と拝殿改修工事


昔の鹿部山は三つの峰をもつ山で、小さく波打つ形の山の様子を地名にした。
現在はその一つが残っているだけである。

① 鹿部山(中の峰)の山頂から発見された平安時代の経筒には「永久元年(1113)筑前国席内院父々夫峰」。
豊臣秀吉の時代、小早川隆景の時には「志々部村」、江戸初期には「志々符村」、「志々戸村」など,元禄5年(1692)には「鹿部村」と記録される。
② 平安時代は「父々夫」と書かれていて、「チチフ」と呼ばれていた。「チチ」は「縮む」、「フ」は節の意と考えられる。
③ 地崩れを表す用語として「シシ」があり、「鹿・宍」の字が当てられている。鹿部山には特徴的な三つの峰をもつ山で、昔の人は地崩れしやすい危険な場所だと知っていたのかもしれない。



現在の鹿部山(我が家からの眺め)




 



森貞次郎 先生による ◇◇◇皇石神社由緒石碑文◇◇◇を、吉住市議が取り上げられた。

九州考古学の草分け的存在の森貞次郎氏(1910~1998)。九州産業大学元教授。




森氏は花鶴団地開発で行わ れた鹿部山遺跡調査の団長。その縁から、皇石神社の由緒の碑文は森氏によるものである。

(私も旧制福岡中学4年で、先生の歴史の講義をうけた。また自宅が近くだったので、遊びにでかけて、考古学の論文の原稿作成の手伝いをしたりした。
旧制高校では、先生の甥御さんが一年後輩で、親しくしていた。社会人になっても彼を経由して
森先生とのつながりがあり、娘さんの縁談の相談に乗ったりした。
専門は異なったが、最後に勤務された九州産業大学に、私も最後の10年間勤務したのも、不思議な縁である。)



その書を写した碑文の全文を以下に横書きで紹介する。

 

 <祭神は埴安神 古く享禄三(1530)年の神殿再建の棟札によれば大石大明神とよば れて
いる 神体は平たく巨大な立石である
神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱き起して立てることができる」と
{うけひ} をされたという
 文政三(1820)年には社名も皇石に変っている 明治三十一年旧暦元旦 神殿後方の合せ口甕より銅剣、銅戈が発見され 弥生時代の重要な甕棺墓遺跡として春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった
昭和四十七年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増したいま祭祀の由来を考えるに 遠く日本原始国家形成期における有力者の興津城の祭祀創まるものであり 神体石は支石墓とよばれる当時の墓制であったとみられる
なお社地に接した鹿部山は もと三つの峰(西の峰;皇石神社 庵の園:東の峰;浦口神社 石崎:中の峰;鹿部山経筒 庵の園)から成っていたが その南麓には数多の古墳群が散在し 中の峰の嶺きからは 永久元年(1113年)の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和四十六年に出土している。



即ち鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り連綿として続いてきた聖域で 本社はその中心の槇の巨木群におおわれた森厳な霊地に 永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斉き祀られてきた真に由緒ある宮どころである >



神功皇后が「もし新羅を征する力があればこの大石を抱き起して立てることができる」といわれた話は、伝説であるためか、正式な古賀町誌、古賀歴史のアルバム、古賀市10年史「うるわし」などには記載されていない。古賀郷土史研究のリーダだった長崎初男先生の影響であろう。そのため、綾杉るな著「神功皇后伝承を歩く」の上下2巻の著書にも、皇石神社は登場しない。
皇石神社にこれだけ大きな石碑文があるのに、残念な話である。

令和4年の鹿部山発掘50年の歴史資料館企画展の資料にも、浦口神社が古賀神社に合祀されたことの記載がない。

その後記載された例を、崎山英二さんの「古賀の昔ばなし」より二つ紹介する。

  (1)「広報こがまち」昭和51年5月第235号
昔の人は,石に神の力が現れると信じていたことから,石を神として祭った。この話も各地に分布しているが,「袂石」(たもといし)から次第に大石になったという伝説が多い。
神功皇后が水軍軍団の訓練をする時,玄界灘を一望できる鹿部山にも登った。訓練を終え,山を下る所に大きな石が横たわっていた。神功皇后は,「この大石を自分一人の力で動かせたら戦いはきっと成功するだろう」と言って,神々を一心に念じ大石に立ち向かった。大石は不思議に軽々と持ち上がった。家来達は大喜びし,この大石を御神体として,この地に神社を建てた。


(2)昭和60年「郷土古賀の民話」古賀町司書部会
国鉄古賀駅から南へおよそ1km,花鶴団地(かづるだんち)の南の端に昔の姿を残す原生林の森がある。この山は鹿部山(ししぶやま)と呼ばれ,中央の峰(標高65.3m)を中心に三つの峰を持っていた山で,現在は一つしか残っていない。この西の峰の中腹に「皇石宮」という古びたお宮がある。神功皇后が三韓(高句麗・百済・新羅)を征伐(原本には「侵略」とある。)するために,香椎に長く滞在し,その準備を整えていた。特に水軍船団の訓練に力を入れ,博多湾や玄界灘・響灘をくまなく回り,高い所に登っては西の方を望んで,いろいろと作戦を立てていた。鹿部山も玄界灘を望むには絶好の場所で,神功皇后もここへ登り,水軍船団の訓練を指揮し,作戦を立てた。訓練を終えて,山を少し下った所に,行く手を塞ぐように大きな石が横たわっていた。それを見た神功皇后は,「この大石を私一人の力で動かすことができたら,三韓征伐が成功するであろう。」と語った。神功皇后が神にひたすら念じ,大石に立ち向かうと,大石は軽々と抱え上げられた。これを見た家来達は喜び,この大石を御神体として,この地に神社を建てた。こうして皇后の「皇」と大石の「石」が一緒になって,いつの日からか,この神社を「皇石宮」と言うようになったと伝えられる。
その後、古賀町南区に住む人達が,皇石宮の御神体によく似た平でおむすび形をした大きな石を運んで来て,お宮を建て,地域の守り神「皇石宮」として祭っていた。この御神体は,昭和27年(1952)の神社合併により,古賀神社(役場前)境内の東側に移されている。
昔,古賀村内には,東に氏神の浦口神社,西に氏神の皇石神社があり,それぞれ崇敬が厚く,村は二分されているようだった。字植松に貴船神社,字牟田に日吉神社があったが,昭和27年(1952)2月17日,浦口神社に四つの神社が合併し,名前を古賀神社と改めた。
御供水は,古賀町大字鹿部の中央にある。長さ約2m,幅約1.5m,深さ約2mの所から清水が湧き出る。古くから皇石神社の神食を炊くのに用いられる。
(参考)「鹿部山遺跡」昭和48年古賀町文化財研究所
鹿部山の中の峰から出土した経筒には、「筑前国席内院父父夫峯」と記載されている。
鹿部山はもとチチブ峯といってらしい。江戸初期には志々夫、或いは志々府と表記されていた。
 

今年は皇石神社拝殿の改修工事がおこなわれた。

    工事担当の、タワー不動産株式会社 社長 長崎浩一氏がフェイスブックに投稿された内容の抜粋。

今年は、古賀市 皇石神社の拝殿の改修工事がおこなわれ、 5月14日 無事完了した。
工事スタートから天候にも恵まれ とてもラッキーで、終了した明日から梅雨入りだとか。
古賀市重要文化財の社殿内部にも入り、 江戸期の木彫なども見て、若干ですが彩色も残っていた。
完成報告の神事では 宮司をはじめ氏子の皆さん、タワー不動産職員にて 古賀市繁栄の祈願祭を行った。













花鶴団地

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