2021年6月26日土曜日

幕末から明治へ 激動の時代を駆け抜けた 徳川慶喜・昭武・兄弟

A) 1867年パリ万博。将軍・徳川慶喜は、弟の昭武(15歳)を代表とする幕府使節団を派遣する。実は、使節団には、幕府の巻き返しを図る密命が託されていたのである。昭武たち幕府使節団に託された密命は、フランスからの600万ドルの借款計画を実現せよというものだった。




幕府のキレモノとして知られる小栗上野介が、駐日フランス公使ロッシュと練り上げた計画。600万ドルの資金を調達して、軍艦や武器を購入し、薩長に対抗しようという幕府の起死回生の策である。

ところが、パリで昭武たちに立ちふさがる薩摩の妨害を前に、この借款は幻に終わる。慶喜の幕府復興の起死回生策は、薩長や英国の妨害によるフランスの外交政策の変更と共についえた。徳川慶喜はさらなる選択に迫られる。

B) パリ万博の主要行事終了後、昭武一行は、幕府との条約締結国を歴訪した。国と国のトップが直接会うことによって、これからの友好関係を深めるためだ。
 幕府の外国奉行、向山隼人正を全権公使とする一行はフランスを出発。スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスの各国で昭武は各国国王らと会見、初の首脳外交を繰り広げた。

 訪問を受けた各国の新聞は、昭武の来訪を報道した。イギリスの絵入り新聞は、「プリンス・トクガワ」として精巧な彼の肖像を掲載。現将軍(慶喜)には子供が無く、昭武が慶喜の寵愛厚い弟であり、将軍を出しうる家、清水徳川家の当主でもあるので、次期将軍の有力候補だと詳しく報じた。

C) パリ万博への派遣が決定する前に、14代将軍家茂の命により、昭武は会津松平家への養子入りが決まっていた。しかし、自分の後継者たりうる人物は昭武しかいないという慶喜の判断により、昭武は将軍を出しうる家の一つである清水徳川家の当主になった。
 同時に慶喜は、これからの指導者には西欧の最新知識の習得が不可欠だとして、パリ万博終了後、3年から5年の長期留学を昭武に命じた。

 しかし、パリ留学中に幕府は瓦解。その直後、兄の水戸藩主・慶篤が急死し、昭武はその後継者に指名された。さらに、前将軍の弟がフランスにいることに深い懸念を持った新政府首脳は、昭武に帰国を命令。帰国した昭武は最後の水戸藩主となる。

 「われわれは薩摩の悪党の海岸を通過した」。フランスからの帰国の船上での、昭武のフランス語日記の一文。彼にしては珍しい激情の言葉であり、その無念さがうかがわれる。

D) その時日本では、榎本武揚ら旧幕臣達が、東洋最強をうたわれた旧幕府海軍を率い北海道を占領、新政府軍に最後の抵抗を続けていた。昭武は、上海に寄港した時、榎本武揚からの使者を迎える。榎本軍の指導者になって欲しいという要請であった。旧幕臣達の旗頭として、フランスに近い昭武を迎えれば、外交交渉上も優位に立てるという榎本のしたたかな計算もあったろう。
 危険すぎるという理由でこの申し出は断る。そして、帰国した昭武は、逆に新政府から榎本軍討伐を命じられる。歴史の矛盾と皮肉であった。


E) 慶喜は、将軍から一転して、天皇の敵「朝敵」とされた。明治元年2月、幕府の本拠地である江戸城を自ら退去した慶喜は上野、水戸、静岡と場所を移しながら謹慎生活を送る。

公的な世界から離れ、趣味に没頭して生きる慶喜のもとへ、かつて彼を朝敵とした天皇から、和解への微妙なるサインが送られる。
 明治維新の時に剥奪された官位が、明治5年の従四位を皮切りに、正二位、そして、同21年には将軍時代を上回る従一位にまで昇る。

さらに、明治15年には慶喜の実質的な長男・厚が華族に列せられ、同29年には彼の9女経子が伏見宮家に嫁ぎ、慶喜は皇族の縁戚となる。いずれも慶喜の心事を思っての天皇からの礼遇であった。
 明治30年末。ついに、慶喜は上京し、天皇に謁見する。謁見が行われたのは、明治31年3月。二人が和解をするためには、30年もの年月を必要とした。

 明治天皇との謁見後、慶喜は急速に名誉回復を遂げていく。明治33年には天皇のそば近くに仕える特権を与えられた麝香間伺候となり、同35年には五爵の最高位である公爵を授けられた。
 これにより、慶喜の名誉回復は果たされたと言える。一切の弁明をせず、沈黙を貫き通した男の生き方が明治国家に受け入れられた。

 大正2年11月、慶喜は明治という時代を見届けて亡くなる。享年76歳。葬儀は上野寛永寺に特設された斎場で、実家の水戸徳川家にならい神式で行われた。


F)  ヨーロッパから帰国した昭武は、翌年の1869年に水戸徳川家を相続し、藩主に就任、明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事となる。

北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡天塩郡上川郡中川郡北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。

明治4年(1871年7月14日廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。

明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治8年(1875年)、中院通富の娘・盛子(栄姫、のち瑛姫)と結婚する。

G)  明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米する。その後、兄弟の土屋挙直松平喜徳とともにフランスに向かい、再び留学する。

なお、前の留学から8年の間に、フランスは第二帝政から第三共和政へ移行している。明治13年(1880年)に留学先のエコール・モンジュを退学。同じくフランスに留学中の甥・徳川篤敬(長兄・慶篤の長男)と欧州旅行(ドイツオーストリア・スイス・イタリア・ベルギー)の後、ロンドンへ半年滞在し、翌14年6月帰国した。

明治16年(1883年)1月に長女・昭子が生まれるが、翌月産後の肥立ちが悪く妻・盛子が死去する。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った翌年には、生母秋庭を伴い戸定邸千葉県松戸市)に移った。やがて明治25年(1892年)、次男の武定子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。

H)  兄慶喜と同じように自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を有した。隠居後、盛んに静岡と往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた.写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されている

また造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地にあたる区画に西洋式庭園を築いて植物の栽培を手がけている。

慶喜が1897年(明治30年)の秋に東京の巣鴨に移った翌明治31年(1898年)に、篤敬が44歳で死去。遺児の圀順が11歳で水戸徳川家当主となり、昭武が後見となる。

明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去した。享年58。兄より短命であった。

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