2016年4月1日金曜日

遣唐使の時代の九州と鑑真(改訂版)

遣唐使の時代と九州

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日中関係の正史は遣隋使や遣唐使からはじまるが、その研究者は案外少ないらしい。
10月18日に奈良大学の東野治之先生の話をきいた。岩波新書「遣唐使」の著者である。
遣隋使は600年から4回、遣唐使は630年から19回派遣されており、20回目の894年の計画は菅原道真の意見で停止されている。
その菅原道真が九州大宰府に配流されたのも一つの縁である。

約300年続いたこの制度は中央で計画・人選・実行されたが、最終的な出発地は九州であった。
航路には北路(新羅道)と南路があり、それぞれ対馬と五島から出発した。
第2次、4次には百済舶、呉唐路も試みられたが成功しなかった。
その出発前の停泊地は風待ちのための大きな入り江で、周囲に切り立った断崖のある場所が選ばれた。

文献にある川原、青方、相河、福浦などの地名の場所を調査した資料を示された。地形的には適した入り江であるが、どこも発掘調査などされたこともない場所で、確実な証拠は不明のままである。
遣唐使の全容については明確な講演であったが、古代九州との関連では ちょっとさびしい調査結果であった。せめて留学生で客死した井真成が九州出身の裏づけでも出ればもりあがったと思う。 関西では藤井寺出身の説がもりあがっているが、九州では、井氏が圧倒的に多い熊本県産山村出身説がもりあがっている。
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さらに追加するならば、遣唐使の要望をうけて鑑真和上は沖縄経由で、大宰府に入国した。
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江蘇省と福岡県は友好協定を結んでいるそうで、その文化交流ウイークがアクロスでひらかれ、10月24日には鑑真和上講演会がおこなわれた。

奈良の唐招提寺執事の西山明彦氏、早稲田大学木下俊彦氏、鑑真の出身地の大明寺方丈の能修氏の3人で、パネル討議をふくむ多様な話がきけた。
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和尚、和上、法師、方丈など僧侶の呼び名はいろいろだが、大和上の称号をもらった鑑真は最高位である。

鑑真大和上を鑑真大和に上るとよんだ中学生がいたそうだ。

中国では玄奘が仏教を輸入し、鑑真が仏教を輸出した。

松尾芭蕉が鑑真の生誕1000年紀の1688年4月8日に唐招提寺をおとずれ

 「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」 と 詠んだ。

鄧小平が唐招提寺をおとずれたとき鑑真和上の像をみて、1200年も大事に保存されているのに感激した。

大明寺に2年前、唐招提寺と同じ金堂ができた。

早稲田大学生グループが今年「鑑真記念逆渡航の交流事業」(日中青年交流プロジェクト)で鑑真の故郷訪問を行った。 等々。


遣唐使の時代は現代につながっていることを実感した。

最近テレビ番組で、鑑真を招聘した聖武天皇の真意を解説していた。
当時の日本では授戒のための戒壇が設けられていなかったので,733年,栄叡 (えいえい) らが入唐して揚州大明寺(1765年以後,法浄寺)の鑑真を招聘した。しかし渡航には苦労があり,12年の歳月と5回の航海に失敗ののち,754年にようやく来朝し,東大寺に戒壇を設けて,聖武上皇・光明皇后 (こうみようこうごう) ら400余人が受戒した。
759年唐招提寺 (とうしようだいじ) を建てて移り,76歳で入滅した。
藤原氏の血筋である聖武上皇は、則天武后が仏教の最高位の受戒により、皇帝の位についた事例にならって、鑑真からの受戒を願っていたという。


その理由は、聖武天皇に男子の子がなく、女帝を立てるには、則天武后の事例に倣って、聖武天皇と妻の光明皇后、その娘の孝謙天皇が高僧から戒授をうける必要があったからである。

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